【戦国こぼれ話】戦国時代にも存在したスパイ。いったい忍者とは、何者だったのだろうか。その実態を探る
■今も昔も重要な情報収集
今も昔も情報は重要である。現代ならば、無断でパソコンをハッキングして情報を盗み取ったり、あるいは隠しカメラやマイクなどで諜報活動をしたりするのだろう。
しかし、科学が発達していなかった戦国時代には、アナログ的な手法で情報を収集した。その役割を担ったのが忍者である。以下、その役割や実態について考えてみよう。
■諜報活動に従事した人々
諜報活動に従事したのは、忍者が代表的である。ほかに、虚無僧、高野聖、山伏、商人、連歌師、芸能者などが知られている。
彼らは本業で各地を訪れて、怪しまれないようにカムフラージュしていた。そして、諜報活動に従事し、大名らに情報を提供していたのである。
宗教者は各地を遍歴するので、あまり怪しまれることがなかった。連歌師や芸能者も各地を訪れ、連歌を指導したり、芸能を披露していたので、同様に怪しまれなかった。
商人も店舗を構える例は少なく、多くは各地を巡る行商人だった。商売をするふりをして、さまざまな情報を聞き出したのである。
以上の面々で、特に注目されるのは忍者である。
■忍者とは
忍者は、乱波(らっぱ)、素波(すっぱ)、草、軒猿(のきざる)などと呼ばれることもあるが、戦国時代には「忍び」、「忍びの者」と称されるのが一般的だった。ただし、以下は「忍者」で統一する。
忍者は行商人などに変装して諜報活動を行ったり、テレビ時代劇に出てくるような黒い服装に身を包んで城に忍び込んだりして、気付かれないように情報の収集を行ったのだ。
忍者の役割は敵情を探る諜報活動に加えて、ゲリラ的に敵陣や城に夜討ちや放火を仕掛けることがあった。神出鬼没であるがゆえに、忍者は常に恐れられていたのである。
■史料にあらわれた忍者
元亀3年(1572)12月、甲斐武田氏は、遠江二俣城(静岡県浜松市)の守備を端とする諸将に書状を送った(「友野文書」)。
内容でもっとも重要なのは、「忍び(忍者)には十分に注意するよう、配下の者に申し付けること」という指示である。「甲斐の虎」と恐れられた武田氏でさえも、忍者を警戒していた。
天正10年(1582)頃、小田原北条氏の一族・北条氏邦は、配下の吉田新左衛門に書状を送った(「諸州古文書」)。その中でも、忍者に対する警戒心が説かれている。
■恐れられた忍者
いずれも忍者に対する警戒というのは、諜報活動も含まれているだろう。先述のとおり、忍者は城内に忍び込むなどし、敵の情報を獲得した。盗み聞きはもちろんのこと、味方のふりをして情報を集めることもあった。
収集する情報の内容とは、たとえば見張りの時間帯、敵が油断していないか、当主と家臣の関係が悪化していないかなどである。敵の弱点を知ることは重要だった。
大名当主らは、忍者からもたらされた情報を基にして、以後の作戦を練り上げたのである。ときに忍者の情報が決定打となり、戦いで勝利を収めることもあったのだ。
今も昔も情報は重要であり、貴重な判断材料とされたのである。