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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦における「東軍」と「西軍」という呼称は正しいのかを考えてみよう

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成は「西軍」を率いたが、今では「西軍」「東軍」の呼称が疑問視されている。(写真:Dora/イメージマート)

■今も使われる「東軍」と「西軍」の呼称

 昨今でもスポーツ大会では、「東西対抗戦」「イースタン対ウエスタン」という名称で対抗戦が行われることがあるようだ。その場合は、おおむね愛知県あたりを境にしているようである。

 ところで、慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原合戦では、徳川家康を中心とする勢力を「東軍」、石田三成を中心とする勢力を「西軍」と称し、何ら問題意識もなく自明のこととして、漠然と用いているのが現状である。

 こうした現状に対して、「東軍」「西軍」という区分に疑問を呈し、問題提起を行ったのが白峰旬氏である。以下、白峰氏の所論を参考にして、「東軍」「西軍」という区分について考えてみよう。

■明治に使われた「東軍」「西軍」の呼称

 「東軍」「西軍」という区分については、実に古い歴史がある。明治26年(1893)、当時の参謀本部の編纂によって、『日本戦史・関原役』という書物が元真社から刊行された。

 参謀本部では、今後の戦争における戦い方の参考にするため、主として戦国時代の主要な合戦を公式な戦史としてまとめた。良い意味でも悪い意味でも、後世に影響を与えた書物である。

 この『日本戦史・関原役』の「第三篇 両軍計画及措置」では、第1章が西軍、第2章が東軍として取り上げられている。このような区分がなぜ採用されたのか判然としないが、おおむね東軍には徳川家康を中心とする東国大名が多く、西軍には毛利輝元・石田三成を中心とする西国大名が多かったからであろう。

■便利な呼称

 白峰氏が指摘するように、「日本陸軍の参謀本部が純粋な戦史研究として戦況分析をする場合、東軍・西軍という区分はわかりやすくて便利」だったのかもしれない。

 おそらくは先述したとおり、東西両軍の勢力基盤を目安として、「東軍」「西軍」と区分されたのであろう。以後、この区分が何の疑問も指摘されることなく、一般的に用いられるようになった。

■難しい「東軍」「西軍」の色分け

 しかし、よく考えてみると、慶長5年(1600)の段階における諸大名の動向を考慮すれば、すべての大名を東軍・西軍に二分することは、あまり意味がないことなのかもしれない。

 少なくとも諸大名にはそれぞれの思惑があったので、全国の隅々にわたって、すべての大名を東軍あるいは西軍に分けるのは困難ではないだろうか。スタンスを明らかにせず、日和見的な態度を示した大名も多い。

 つまり、東西両軍に属した諸大名が、まったく同じ考え方のもとで組織されたとは考えられないので、「東軍」「西軍」という区分は、今後用いるべきではない、と指摘されている。

■ふさわしい区分法

 では、いったいどのように区分すればよいのであろうか。

 白峰氏は一次史料を用いて、当時における呼称を用いて検討を行っている。その中では、「石田三成・毛利輝元連合軍」と「徳川家康主導軍」という区分が用いられている。

 たとえば、一次史料で「輝元方敗軍」あるいは「奉行方之者(浅野長政を除く四奉行)」と使われているので、輝元が「石田三成・毛利輝元連合軍」のトップであることや石田三成が中心メンバーであったことは明らかである。厳密にいうならば、誠に傾聴すべき主張である。

 ところが、現実的に考えると、すでに「東軍」「西軍」という呼称が広く世の中に浸透しており、残念ながら従わざるを得ないというのが実情だろう。

 読者の皆さんには、関ヶ原合戦における「東軍」「西軍」という区分に疑問があることを知っておいていただきたい。

【参考文献】

白峰旬『新「関ヶ原合戦―定説を覆す史上最大の戦いの真実―」論』(新人物往来社、2011年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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