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【戦国こぼれ話】三方ヶ原の戦いで徳川家康は脱糞したのか!? 有名な「しかみ像」の真偽は!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三方ヶ原の戦いで惨敗を喫した徳川家康は、戒めとして「顰(しかみ)像」を描かせた。(提供:アフロ)

■徳川家康の脱糞は事実なのか

 誰でも怖い思いをすると、お漏らししそうになることが今でもあるだろう。とはいえ、それが名将として名高い徳川家康であったらどうだろうか?

 家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて敗走した際、あまりの恐怖に脱糞したという。そのとき、戒めとして家康の姿を描いたのが有名な「顰(しかみ)像」といわれているが、はたして事実なのだろうか?

■三方ヶ原の戦いでの敗戦

 元亀3年(1573)12月、徳川家康は織田信長と協力し、三方ヶ原(静岡県浜松市北区)で武田信玄の軍勢に戦いを挑んだが、結果は無残な敗北だった。

 敗走する家康は、あまりの恐怖に脱糞してしまった。家康は浜松城に到着後、その事実を家臣から指摘されたといわれている。その際、家康は「これは味噌だ」と家臣に言い訳したというが、典拠となる史料は不明である。

 合戦後、家康は敗戦の悔しさを忘れず、また自身の慢心を戒めるために自身の姿を絵師に描かせた。これが有名な「顰(しかみ)像」である。家康は、生涯にわたって「顰(しかみ)像」を座右に置いていたといわれている。

 正式にいうと、「顰(しかみ)像」は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)と名付けられている。座った家康が足を組んで、頬杖をついている姿は有名であろう。

■伝来の経緯と疑問

 ところが、この絵の伝来については、少々疑問がある。18世紀の終わり頃には単に家康の肖像画とされていたが、明治期には「長篠戦役図」と称されるようになったという。

 昭和の時代になって、三方ヶ原の敗戦後、家康が自らを戒めるための肖像画として伝わるようになった。つまり、途中から三方ヶ原の戦いのものとされたのだ。

 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」については、すでにさまざまな疑問が指摘されている。美術史観点からいえば、三方ヶ原合戦後に描かれたものではなく、後世に描かれたものではないかといわれている。描法を勘案すると、17世紀頃の作品ではないかと推測されている。

■家康の怒った表情

 また、家康の表情は「忿怒(大いに怒ること)」を表現しており、むしろ家康を神格化したものではないかとされ、座っている姿は半跏思惟(思索している弥勒菩薩の姿)とも指摘されている。

 何よりも「徳川家康三方ヶ原戦役画像」には、「三方ヶ原合戦後のものである」と書いた添付資料(箱書や目録など)がない。したがって、伝来がはっきりしないことから、現在では三方ヶ原合戦後の作品とするには疑問が多いといわれている。

■果たして真偽は

 実は、家康が三方ヶ原での敗戦を忘れぬよう、自分の姿を描かせ、生涯にわたって戒めのため座右に置いたというのは、同時代の史料には書かれていない。後世になって、付加されたものである

 つまり、「顰(しかみ)像」が三方ヶ原敗戦後の家康を描いたという根拠は、まったくないのである。いうなれば、単なる伝承の類にすぎないのである。脱糞の件も同じことで、根拠を欠く伝承にすぎない。

 家康を描いた「顰(しかみ)像」は大変ユニークな由緒を持つことで知られ、また脱糞のおもしろい話なのだが、今となっては否定的な見解が多数を占めている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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