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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は豊臣秀頼を恐れたのか!?秀頼関白就任の噂の真相とは!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀頼の首塚。慶長20年5月の大坂冬の陣で敗れた秀頼は、大坂城で自害した。(写真:ogurisu/イメージマート)

■家康は秀頼を恐れたのか

 会社などで人事の抗争に巻き込まれ、実力がありながらも左遷された社員も多いだろう。しかし、左遷されたとはいえ、実力者の場合は「きっと復活するはず」と恐れられているかもしれない。

 慶長5年(1600)9月、豊臣秀頼を推戴した石田三成ら率いる西軍は、徳川家康率いる東軍と戦って敗北した。結果、秀頼の所領は大幅に減ってしまった。

 しかし、家康は秀頼を侮ることがなく、逆に恐れていたといわれるが、真相はいかに?

■征夷大将軍になった家康

 慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、名実ともに天下人へとなった。通説によると、この頃から家康は豊臣家を滅亡に追い込もうと考えていたといわれている。そう家康が考えたのは、そもそも事実なのだろうか。

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦勃発時、秀頼はまだ10歳にも満たない少年であった。秀頼は名目的に祭り上げられたかもしれないが、最終的にその罪を免れることはできなかった。

 かつて秀頼の所領高は、全国各地に散在する蔵入地など約220万石もあった。関ヶ原合戦後は摂津国など3ヵ国約65万石の領有が辛うじて認められ、所領は約3分の1まで激減した。

 秀頼は大幅な減封措置を受けたが、まだ豊臣公儀として認識されており、その地位はしばらくの間は比較的安定していたといわれている。

■秀頼関白就任の噂

 関ヶ原合戦から2年後、秀頼が関白に就任するとの噂が流れていた。慶長7年(1602)12月、醍醐三宝院(京都市伏見区)で同寺の座主を務めた義演(ぎえん)は、近く秀頼が関白に任官するという風聞を書き留めている(『義演准后日記』)。

 翌慶長8年(1603)1月、毛利輝元は国元に宛てた書状の中で、秀頼が近々に関白になるであろうことを記している(『萩藩閥閲録』)。

 また、相国寺の住持を務めた西笑承兌(さいしょうじょうたい)も、勅使が大坂城の秀頼に派遣されたことから、関白任官の件であろうと考えている(『鹿苑日録』)。秀頼の関白就任は、豊臣家の復権を予感させるものがあった。

 いずれも風聞の域を出ていないが、少なからず秀頼が関白に任官するとの噂があったのは事実として認められる。しかし、秀頼の関白就任は、最終的に実現しなかった。

■家康の秀頼に対する態度

 実際のところ、家康は少なからず秀頼に警戒心を抱きつつも、豊臣家と融和する姿勢を怠らなかったようにも思える。

 慶長8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任じられるが、豊臣方への配慮も忘れなかった。家康は秀吉の遺言を守り、当時まだ11歳の秀頼に対し、孫娘の千姫(秀忠の娘)を嫁がせたのである。千姫は、まだ7歳の幼女であった。

 当該期における婚姻は、自由恋愛ではなく政略によるものであった。つまり、秀頼と千姫との婚姻は、両家が良好な関係を保とうとするメッセージであったといえよう。

 したがって、この段階で家康は豊臣家を滅亡に追い込もうとしたのではなく、秀頼と千姫との婚姻を通じて安定した関係を結ぼうとしたと考えられる。家康の姿勢は謀略に満ちたものではなく、逆の考えをうかがうことができる。

■家康の意図

 関ヶ原合戦直後の政治情勢からすれば、家康が秀頼よりも各上なのは自明のことだった。したがって、家康は秀頼を恐れるというよりも、速やかに自らの配下に置きたかったというのが本音ではなかっただろうか。

 通説によると、関ヶ原合戦で勝利した家康は、そのまま豊臣家の滅亡を画策したというが、実際はそうでなかったというのが実情だろう。

 そもそもが豊臣家を滅亡させるのに15年も歳月をかけるなど、あまりに暢気な話である。一気呵成に豊臣家を叩くチャンスは、いくらでもあったはずだ。

 なお、豊臣家が滅亡したのは、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣のときである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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