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【戦国こぼれ話】主人と変わらない高禄! 石田三成に「過ぎたる軍師」嶋左近は2人いたのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成は自らの所領の半分を島左近に与え、召し抱えたと言われている。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■社長と給与が変わらない部下

 アメリカは完全な成果主義なので、ときにすばらしい業績を挙げた社員は、社長よりも給料が同レベルもしくは高くなることもあるという。むろん、今の日本では考えられないが、戦国時代にはいた。石田三成の軍師・嶋左近がその1人である。

 後述するとおり、三成は自身の所領の半分を割いて、左近を召し抱えようとしたという。その真相とは?

■嶋左近の来歴

 嶋左近は大和国の出身であるといわれているが、その来歴については不明な点が多い。現在、嶋左近は『多聞院日記』や「根岸文書」に「清興」と書かれているので、左近とは呼ばないことが多くなった。勝猛という呼び名も確実な史料で裏付けられない。以下、清興で統一することにしよう。

 清興は畠山氏に仕官後、大和の有力国人・筒井氏に仕えた。清興は筒井順慶の「侍大将」を務めたというが、やはり裏付けとなる史料はない。

 筒井家の重臣としては、松倉重信(右近)と嶋清興(左近)が「右近左近」が並び称されるが、これも語呂がよいため後世にそう呼ばれたものと考えられる。

■石田三成に仕える

 清興は順慶の後継者・定次とは意見が合わず筒井家を去り、その後は牢人となった。いったん清興は大和の法隆寺に身を寄せたのち、近江国へ向かったという。その後の清興は、豊臣秀長、豊臣秀保あるいは関一政に仕えたといわれている。

 やがて、清興は近江国水口(滋賀県甲賀市)に所領を持った石田三成から招かれ、三成は自身の領する4万石のうち、清興に2万石を与えるという破格の条件を示したと伝える(『常山紀談』)。なぜ、三成はそのようなことをしたのか?

■仕官に関する異説

 三成は清興に何度も家臣になるよう懇請したが、それはことごとく断られた。そこで、三成は高禄を提示することで、家臣に迎えようとしたのだ。この話は、「君臣禄を分かつ」のエピソードとして知られている。

 のちに、清興ほどの者が三成に仕えたので、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と詠まれたほどだ。

 ところが、三成が水口を領していたというのは誤りで、実は近江国佐和山城(滋賀県彦根市)で19万石を領していた文禄4年(1595)以降のことではないかと指摘されている。『常山紀談』の記述内容は、誤っていたのだ。

■2人いた清興

 ところで、清興の出自については異説がある。実は筒井氏に仕えた左近と三成に仕えた左近(清興)は、親子だったという説がそれだ。

 たしかに、この説が成り立つならば、清興の年齢は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ではだいただ40歳代前半となり、子の信吉や柳生兵庫助の妾となった娘の年齢とも不自然さがなくなる。しかし、明確な根拠はない。

 三成の配下に加わった清興は、その参謀として力を尽くした。関ヶ原合戦では、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と東軍武将に言わしめるほど活躍したが、敗北に終わったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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