■恐るべき幼少時代

 今も政界、財界などで活躍する人物は、幼少期から優れた才能を示したことだろう。戦国時代の有能な武将も同じである。宇喜多直家はたった一代で備前、美作を支配下に治めたが、やはり恐ろしいほどの才覚があった。その実像を探ることにしよう。

■宇喜多直家とは

 直家は興家の子として、享禄2年(1529)に誕生した。興家は無能な人物として知られ、直家が幼少の頃に没した。父の没後、直家は各地での流浪生活を余儀なくされ、備前国の豪商・阿部善定の援助を受けた。この受難の日々は、直家を精神的にたくましく成長させたことであろう。

 『備前軍記』によると、直家は父に似て凡庸であったと伝える。しかし、それは仮の姿であった。ある日、直家の凡庸さを嘆き悲しむ母方の伯母に対して、直家は「もし私が人並みの器量があるとわかれば、嶋村氏(祖父の能家を謀殺した浦上氏の家臣)に殺害されるので、わざと無能な振りをして時期を待っているのです」と述べたという。

 このとき直家は10代前半の子供であった。むろんすべてを信用するわけにはいかないが、のちに「梟雄」と呼ばれるほどの才能を発揮することを思えば、利発な少年であったことは確かであろう。

 その後、直家は浦上宗景に取り立てられ、祖父・能家の復讐を果たして嶋村氏を討った。その手法も、実に謀略に満ちた手法だったのである。以下、その策略を確認しておこう。

■姻戚関係を利用する

 浦上宗景に取り立てられた直家は、敵対する浮田大和守の討伐に成功し、新庄山城を与えられた。そして、天文21年(1551)になると、直家は宗景の命令によって、沼城主である中山信正の娘を妻として迎えている。ほぼ時期を同じくして、嶋村氏と妻の実家中山氏が宗景に謀叛を企んでいるとの風聞が流れた。

 この状況を見逃さなかったのが直家である。結婚したばかりの直家は宗景のもとに参上すると、懐から嶋村謀叛の証拠となる書状を取り出し、「嶋村氏は祖父・能家の敵でもあるので、中山氏もろとも喜んで討ち取りましょう」と申し出た。直家の作戦は小さな茶亭を作り、そこに連日中山信正を招き酒宴を催すものであった。

 事情を知らない信正にすれば、「気の利く婿」とくらいしか思わなかったであろう。そんなある日、直家はいつものように信正を茶亭に招いた。信正はしたたかに酔って深夜になると、直家は一刀のもとに切り伏せ、宗景に烽火で合図を送ったのである。

 直家は宗景に対して、烽火をあげたら嶋村氏を寄越すように打ち合わせていた。何も知らない嶋村氏は、直家のもとにやってきた。すると、直家は油断していた嶋村氏の軍勢を一気に打ち破り、嶋村氏の居城である砥石山城を乗っ取った。

 直家は見事に中山氏と嶋村氏を討ち取ったのだ。その後、直家は沼城を与えられると、周辺の有力領主を次々と討ち取った。「梟雄」の誕生である。

■織田・毛利を翻弄

 現在の岡山県域である備前・美作両国は、戦国時代に「境目の地域」と呼ばれていた。両国とも強大な領主権力が存在せず、中小領主が各地に勢力を保持した。しかし、戦国期に入ると尼子氏、毛利氏などが侵攻し、中小領主はいずれかの傘下に入らざるを得なかった。

 その中で、直家は浦上宗景と緩やかな連携を保ちつつ、毛利氏と織田氏との間で翻弄される存在であった。当時の毛利氏、織田氏側の史料を見ると、「浦上氏、宇喜多氏は信用できない」といった内容を散見できる。

 やがて、宇喜多氏は備前国を代表する一大勢力として成長すると、天正2年(1574)に宇喜多・浦上の両者はついに決裂した。宇喜多氏は「備前衆」と称されるように、備前一国の広範な中小領主を組織しえた。

 しかし、一方の宗景は「天神山衆」と呼ばれるように、居城である天神山城周辺にしか組織できなかったようだ。翌天正3年(1575)には直家が宗景の追放に成功し、備前国を代表する盟主となった。

 直家は毛利氏と関係を結んでいたので、逃亡した宗景は織田氏に泣きついた。当時、毛利氏のもとには、信長と反目した将軍・足利義昭が庇護されており、「打倒信長」の執念を燃やしていたからだ。天正5年(1577)の段階で、直家は播磨に進駐していた織田軍を相手にして、毛利軍の最前線として活動したのである。

■毛利氏から離反する

 この年から、織田方で尼子氏再興に命をかける山中鹿介が播磨国上月城に籠もり、攻防を繰り広げる。当初、直家は上月城の戦いで敗北を喫し、苦境に立たされるが、同時に少しずつ毛利氏から距離を置くようになった。

 結局、戦いは織田方が上月城を見殺しにしたので毛利氏が勝利したが、天正7年(1579)に直家は織田方に寝返っている。

 『信長公記』によると、羽柴(豊臣)秀吉の口利きもあって、織田信長から直家に「御朱印」が与えられることになったという。この「御朱印」とは、恐らく備前・美作両国の支配権を与える保証をしたものであろう。つまり、直家は「利」を取ったのである。

■稀に見る先見の明

 時をほぼ同じくして、摂津国では有岡城主荒木村重が叛旗を翻し、播磨国では三木城主別所長治が毛利氏と通じて信長に謀叛を起こした。

 当初、彼らは毛利氏、将軍足利氏や本願寺と結んでおり、有利と見られていた。しかし、結果は周知のとおり無残なもので、村重は逃亡したものの籠城者は皆殺しにあい、別所氏は一族の者が揃って切腹した。そのような事実を見れば、直家には類稀なる「先見の明」があったといってよい。

■謀略の達人だった直家

 また直家は、イタリアの政治思想家マキアベリのような徹底した現実主義者であった。当時の結婚と言えば、ほぼ例外なく政略結婚であったが、直家は婚姻をうまく活用し周辺の中小領主と結んだ。結婚する子供の数が足りなければ、「遠い縁戚までたどればよい」と言っているほどである。

 そのため『太閤記』の著者小瀬甫庵は、「謀略を最も得意とし、正しい道を知らない者の天下は長く続かない」と直家を評している。直家は敵対する毛利氏との合戦の最中、天正9年(1581)2月に岡山城内で病没したといわれているが、これは作り話にしか過ぎない。毛利氏を牽制し、直家の政治巧者ぶりを強調した創作なのである。

 実際に直家がこの世を去ったのは、天正10年(1582)1月のことである。