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【戦国こぼれ話】ああ、哀れなり!子の行く末を案じながら逝った豊臣秀吉の悲惨な最期とは!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
死を迎えつつあった豊臣秀吉は、子の秀頼と今後の豊臣政権の行方を案じながら逝った。(提供:koni/イメージマート)

■親が子を思う気持ち

 現代においても、親が子を思う気持ちは変わらない。たとえ自分が栄耀栄華を極めたとしても、子も同じようになるのかは別問題である。

 晩年の豊臣秀吉は子の秀頼の行く末を心配しつつ、この世を去った。その経緯を探ってみよう。

■衰えた秀吉

 慶長3年(1598)頃から、豊臣秀吉は病に臥せるようになった。病名は労咳や喘息などが取り沙汰されているが、高齢ゆえに体力は相当低下しており、複数の要因が想定される。ところで、老い先の短い秀吉にとって、もっとも気掛りなことは、幼い子の秀頼と豊臣家の行く末であった。

 秀吉は養子に迎えた秀次を自害に追い込み、後継者を秀頼に定めて以降、将来のことを考えて対策に乗り出した。文禄4年(1595)7月、秀吉はのちに五大老となる諸大名(徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家)に対して、起請文を提出させた(「防府毛利報公会所蔵文書」)。

 その内容で重要なことは、「秀頼に対して、裏切りの気持ちを持たず、守り立てて行くこと」だ。そして、関東は家康が、関西は輝元・隆景がそれぞれ統治するように定められ、必ずどちらかが交代で在京するように義務づけられた。長期間の在国を許さなかったのは、現地で謀叛を企むことを牽制したものであろう。

 秀吉は絶対的な権力者である自分が亡くなれば、何ら後ろ盾のない豊臣家は大変なことになると考えていた。家の存続を願う秀吉にすれば、五大老にすがりつくのがごく自然な行為だったのである。

■他大名にも起請文の提出を求める

 利家・秀家に関しても、ほぼ同様の起請文を提出させた(「大阪城天守閣所蔵文書」)。利家と秀家は私事により下国してはいけないとし、家康らと同様に在京義務が課せられ、政権内部での統制を託された。

 つまり、家康や輝元・隆景が豊臣政権の地方支配を委任されたのに対し、利家・秀家は政権内部の秩序維持を任されたといってもよい。

 実は、織田信雄ら28名の諸大名も血判の起請文を提出している(「大阪城天守閣所蔵文書」)。しかし、彼らには、何らかの権利が与えられたわけではなく、忠誠心を求められただけであった。したがって、28人の諸大名は、それぞれの与えられた国の支配を遂行することが責務と定められたに過ぎなかった。

 秀吉は、これとは別に文禄4年(1595)8月に御掟を定めた(「周南市美術博物館寄託文書」など)。その内容は、大名間の縁組みにはあらかじめ許可を得ること、大名間で盟約を結ぶことを禁じることであった。秀吉は、こうした行為が謀叛につながることを予見していたのである。

 さらに、秀家を除く5人(家康、利家、輝元、隆景、景勝)や古公家などには乗物駕籠の使用を許可し、たとえ大名であっても若い者については騎馬を原則とした。この原則を示すことにより、他の大名と後の五大老となるメンバーとの扱いを秩序のうえで位置付けたのである。秀吉最後の願いであった。

■不安が増す秀吉

 秀吉は早い段階で将来への布石を打っていたのであるが、不安はただ増すばかりで、死期が迫るにつれさらに手を打った。

 秀吉が五大老の面々に対し、秀頼を支えるように遺言状を残したことはあまりに有名である(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、「秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えて欲しい」と懇願し、「これ以外に思い残すことはない」とまで書き記している。

 さらに、追って書き(追伸)の部分では、配下の五奉行たちにも、秀頼のことを申し付けてあるとまで述べている。「人間秀吉」の真の姿であった。

 遺言だけではない。『甫庵太閤記』によると、秀吉は自身が所有していた茶器、名画、名刀そして黄金を多くの人々に与えたことが記されている。とりわけ有力な家康や利家には厚く、下々の者にまで贈られたという。

■秀吉の最期

 病状の悪化した秀吉は、やがて失禁すらしたと記録に残されている。秀吉の臨終に関しては、フランシスコ・パシオ師の貴重な報告が残っている。

 その記録によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったと伝える。しかし、最後まで執着したのは、秀頼の行く末であった。

 秀吉がもっとも恐れていたのは、五大老の1人である家康であった。その死の瞬間まで、家康を支えにして、秀頼を盛り立てて欲しいと願ったのである。

 秀吉は孤独であった。もはや頼るべき親類などはおらず、まったくのアカの他人に秀頼の将来を委ねざるを得なかった。それでも繰り返し繰り返し、五大老に秀頼の将来を頼み込む姿は、親としてできる最後のことだったのである。

 秀吉が亡くなったのは慶長3年(1598)8月18日のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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