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【戦国こぼれ話】飽食といわれる現代社会。戦国時代の食事はどのようなものだったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
日本人の大好きなおにぎり。今やパン食に押され気味だが、貴重なエネルギー源だ。(写真:アフロ)

■戦国時代の食事

 現代社会は飽食といわれており、余った食材が廃棄されるありさまだ。しかし、戦国時代は1日2食で、おかずも豊富ではなかった。以下、当時の食事や戦国大名の食事にまつわる逸話を紹介しよう。

 戦国時代の食事については、意外と知られていない。そもそも食事の現物は残っておらず、史料的にも豊富ではないという現状がある。

 食の詳細が明らかになるのは、おおむね江戸時代以降である。そのような制約はあるが、まずは戦国時代の平時における食事について触れることにしよう。

 そもそも日本では、一日2食が基本だった。朝・昼・晩に食事を摂る3食制が確立したのは、おおむね織豊期(16世紀後半)頃といわれている。ただし、2食とはいっても、間食(硯水)を摂ることも多かったようだ。

 2食の頃の食事を摂るタイミングもさまざまで、一般的な武将の場合、朝食は午前8時頃、夕食は午後5時頃であったという。しかし、公家の場合は午前10時頃に朝食を摂り、午後4時頃に夕食を食したとの記録も残っている。

■米を大量に摂取

 戦国時代の人々は、農作業や土木作業に従事したり、自らの足で歩くことが多かったので、多くのエネルギー量を必要とした。

 それゆえ、日常食はエネルギー源の糖質を含む米を大量に摂取し、味付けの濃い副菜で飯をかきこむというスタイルだった。今は糖質を控えるようにしているのだから、真逆である。

 米には、粟や稗などの雑穀も混じっていた。副菜の品数は1・2品程度で、ほかに汁が添えられた。汁には野菜や肉が具材として用いられ、副菜も兼ねていた。ときにはおやつとして、果物(杏、桃など)が提供されたのである。

 当時の米は蒸して提供されており、強飯と称された。白米も用いられたが、多くは黒米(半搗米、玄米)だったといわれている。

 ちなみに、現代のように水を入れて炊いた米は、姫飯という。強飯は湯漬や水漬にしたり、あるいは汁をかけて食することもあった。また、菜飯や赤飯といった混ぜご飯、おかゆも好まれたといわれている。

■織田信長と食事の逸話

 戦国大名と食事にまつわるエピソードには事欠かない。以下、いくつか挙げておこう。

 三好氏の滅亡後、坪内某なる料理人が織田家に生け捕りにされた。坪内某は鶴や鯉の料理に優れ、饗宴の膳も作るほど優れた腕を持っていた。

 坪内某の子供も料理人として奉公しているので、織田家の料理番をさせてはどうかという話になった。その話を聞いた信長は、坪内某に明朝の食事を作らせることにしたのである。

 朝、信長が坪内某の料理を食べると、「水臭い(味が薄い)」と怒り出し、坪内某を殺してしまえと命令した。坪内某はかしこまって、「もう一度作らせてください。それでまずかったら、腹を切っても構いません」と懇願したという。

 謝罪に免じて、信長はいったん許したといわれている。翌日、信長が坪内某の料理を食べると、その味のうまさに大変驚き、喜びのあまり坪内某に禄を与えようとした。なぜ、坪内某の料理は、急においしくなったのか。

 実は、信長が坪内某の料理を激賞したのには理由があった。坪内某が料理を作っていた三好家は将軍に仕えるなどし、京風の薄味を好んでいた。

 しかし、信長は尾張の田舎者なので、味が濃いものを好んでいたという。坪内某は、そのことに気付かなかったのである。ゆえに、信長はあまりの味の薄さに怒ったのだった。

 そこで、坪内某は塩加減を濃い目にしたところ、信長は大変喜んだというのである。ただし、坪内某は、濃い味の料理を田舎風と揶揄していたと伝わっている(以上『常山紀談』)。

■無能と断じられた北条氏政

 まだ若い頃の北条氏政には、有名な汁かけ飯の逸話が残っている。食事の際、氏政は飯に汁をかけて食べていたが、汁が少なかったのか、もう一度飯に汁をかけたという。

 父の氏康はこの様子を見て、「飯にかける汁の量も計れぬようでは、家臣や領民の気持ちも推し量れまい」と嘆息した。そして、その予言通り、北条氏は滅亡したのである。

 氏政には、麦に関する逸話も残っている(『甲陽軍鑑』)。氏政は農民が麦刈りをしているのを見て、「昼飯は、あの取れたての麦にしよう」と述べた。

 しかし、刈ったばかりの麦は、そのまますぐに食べられなかった。麦は干したあとに脱穀し、精白するなどして、ようやく食べることができる。武田信玄はその話を伝え聞いて、氏政のあまりの無知ぶりを笑い飛ばしたと伝わっている。

■馬刺しのはじまり

 馬刺しの食用については、加藤清正が関係しているといわれている。馬刺しを食べるきっかけとなったのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)という。

 清正も朝鮮に出陣した。当初、戦いは日本軍が優勢だったが、徐々に朝鮮軍も勢いを盛り返し、やがて清正が苦境に立たされた。

 清正が籠城をしているうちに、徐々に食料は尽きてきた。ついには、軍馬にも手をつけたという。それが馬刺しのルーツであり、清正が肥後国に帰国後、広めたといわれている。

 このように食事に関する逸話は数多いが、当時の人々の食に対する思いが伝わっておもしろい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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