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【戦国こぼれ話】「我が眼」と称された真田昌幸。その知られざる前半生とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長篠の戦いで、真田家は長男・次男を失ったので、三男の昌幸が後継者となった。(提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■誰もが欲しい腹心の部下

 会社の幹部社員ならば、誰もが有能な腹心の部下が欲しいと思うに違いない。それは、戦国大名も同じだったといえる。現実に名将はたしかに存在した。

 甲斐の戦国大名・武田信玄を支えた名将といえば、真田信繁(幸村)の父・昌幸が有名である。昌幸とは、いかなる人物だったのだろうか。

■「我が眼」と称された昌幸

 昌幸は、天文16年(1547)に幸綱(幸隆)の3男として生まれた。一時期は養子に出たこともあったが、2人の兄が天正3年(1575)5月の長篠合戦で戦死したので、昌幸の運が開けた。

 昌幸は死んだ長男・信綱の跡を継ぎ、29歳で真田家の当主となったのだ。信玄は昌幸の能力を高く評価し、「我が眼」と称して重用したといわれている(『甲陽軍鑑』)。

 昌幸の妻・山之手殿は公家の菊亭晴季といわれているが、公家の娘を娶ったとは考えがたく、むしろ武田氏の家臣・遠山右馬助の娘という説があり、そのほうが妥当性があるという。

■信玄の死

 天正元年(1573)4月に信玄が病没すると、後継者の勝頼は信玄の死を3年間も伏していた。つまり、昌幸が真田家の当主になった直前は武田氏の過渡期でもあり、手放しで喜べる状況ではなかった。

 天正6年(1578)3月に上杉謙信が亡くなると、武田氏に転機が訪れた。謙信の2人の養子・景勝と景虎は、上杉家の家督をめぐって戦ったのだ(御館の乱)。

 戦いに勝った景勝は勝頼の妹を妻とし、交換条件として勝頼は東上野の領有権を得た(甲越同盟)。ところが、東上野の帰属をめぐり、北条氏と交戦することになる。

■上杉・武田・北条の三つ巴の戦い

 天正6年(1578)10月、昌幸は勝頼の命令により東上野に攻め込んだ。そして、沼田城(群馬県沼田市)、名胡桃城(同みなかみ町)などを攻略したのである。こうして沼田城を基点にして、上杉・武田・北条の3氏は、激しく争った。

 天正7年(1579)9月、昌幸は叔父・矢沢頼綱に沼田城の攻撃を命じたが、攻略は難航。翌年閏3月にようやく沼田城を落した。昌幸は「沼田城法度七ヵ条」を制定するなど、本格的に沼田領で支配を展開した。

■乏しい史料に基づく興味本位の虚説

 信玄から「我が眼」と称され厚い信頼を置かれた昌幸とは、いったいどのような人物だったのか。実は、昌幸の人物像を伝える良質な史料は少なく、われわれが知る昌幸を物語る逸話の数々は、間違った興味本位の説に基づいているという。

 映画、テレビドラマ、小説などの昌幸像は、そうした数々の豪快なエピソードが基になっており、昌幸の人気を高めたと考えられる。なお、戦国武将の教養として、和歌や連歌は重要であるが、昌幸が関わった形跡はないという。意外と人間性を物語る史料が乏しいようだ。

■能力を高めた昌幸

 昌幸は南北朝期に活躍した楠木正成を模範にし、少ない兵力で大兵力に立ち向かう創意工夫、そして家臣や領民を統率する能力を磨き上げたと指摘されている。さまざまな奇策を駆使した正成は、敵と互角あるいはそれ以上に戦い、南朝を支えた忠臣の1人として知られている。

 昌幸は主君である信玄を手本として、軍略家としての能力を高めたともいう。正成や主君が手本だったようである。しかし、昌幸が正成を範としたという事実は、良質な史料で確認することができない。

 昌幸が優秀な軍略家であったのはたしかかもしれないが、「軍師」として考えるのは、単なる創作に過ぎないであろう。そもそも戦国時代には、「軍師」という言葉がなかった。

■さまざまな戦いにまつわるエピソード

 昌幸の作戦については、有名な逸話が残っている。昌幸は天正13年(1585)の神川合戦において、大軍で押し寄せる徳川氏を手玉に取った(『上田軍記』)。

 最後は、徳川軍が続々と神川を渡って上田城を攻撃しようとすると、昌幸は焦ることなく徳川軍をぎりぎりまで引き付け、鉄砲を一気に打つなどして撃退に成功した。

 こうして徳川方の軍勢は、神川で多くの者が溺死したという。『三河物語』は徳川寄りの編纂物であるが、昌幸に散々に打ち負かされたことを正直に書き残している。それゆえ、昌幸が大勝利を収めたのはたしかと考えられる。

 それだけではない。このとき昌幸は、怒涛のごとく攻め寄せる徳川軍を目にしながらも、配下の者に「高砂」を舞うように命じたという。また、好きな碁に興じるような余裕を見せたといわれている。

■創作された名軍師像

 こうした昌幸の余裕を見せた行動は、味方に危機が迫っている状況なので、にわかに事実とは信じ難い。敵が押し寄せても焦ることなく、冷静に判断するという、昌幸の「名軍師」像を創作しているように感じる。おそらく俗説であろう。

 ただ、この戦いで昌幸が功を奏したのは間違いなく、その名声が広まったのは事実であると考えてよい。このようにして、昌幸の「名軍師」像が形成され、信繁はその子として大いに期待されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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