【「麒麟がくる」コラム】織田信長の根本史料『信長公記』は、どういう史料なのだろうか?
■『信長公記』のこと
大河ドラマ「麒麟がくる」では、主人公の明智光秀はもちろんのこと、主の織田信長の動きも非常に注目される。信長の生涯を探るうえで欠かすことができない史料としては、『信長公記』がある。
同書を執筆したのは、信長に仕えた側近の太田牛一。同書は、単に『信長記』、あるいは『原本信長記』とも称される。牛一は日頃からメモを残しており、慶長8年(1603)頃には『信長公記』を完成させたという。信長が亡くなったのは天正10年(1582)なので、21年後のことだ。
■3種類ある『信長公記』の原本
珍しいことに『信長公記』の原本は、次のとおり3種類が伝わっている。
(1)『永禄十一年記』(東京・尊経閣文庫、1巻本)
(2)『信長記』(岡山大学附属図書館・池田家文庫所蔵、15巻本)
(3)『信長公記』(京都・建勲神社所蔵、15巻本)
ほかにも良質な写本として、陽明本、町田本、天理本の存在が知られている。(2)と(3)は重要文化財であるが、信長が京都に入洛する前の動向を示す首巻を欠いている点に特徴がある。なお、(2)は福武書店から昭和51年(1976)に影印本(原本を写真撮影しそのまま本にしたもの)として刊行された。
■一番の善本は
3種類の原本の中で、(2)には朱筆の訓点(漢文を訓読するために書き入れる文字や符号)が施されており、また牛一自筆の冊が含まれると考えられ、もっとも善本であると指摘されている。
現在広く活用されている奥野高廣・岩沢愿彦校注『信長公記』(角川ソフィア文庫)は、陽明本を底本としている(同書は長らく品切れになっている)。
■利用には史料批判が必要
二次史料とはいえ、『信長公記』は信長研究で欠かすことができない史料であり、おおむね記事の内容は信頼できると評価されている。
ただ、成立したのは信長の死後から21年を経過しており、牛一のずば抜けた記憶力やメモがあったとはいえ、誤りや記憶違いもあると危惧される。必ずしも万能とは言えないのだ。
したがって、利用に際しては慎重さが必要で、一次史料(同時代の古文書や書状など)との照合が欠かせないことに注意すべきである。
■問題のある類似本
『信長公記』が比較的良質であるという評価を受ける反面、内容に問題が多い二次史料も少なくない。
『信長公記』とよく似たタイトルの二次史料として、儒学者・小瀬甫庵の手になる『信長記』がある。書名が『信長公記』と混同されないため、あえて『甫庵信長記』と称される。同書の成立年は慶長16年(1611)頃といわれているので、信長の死後から29年経過している。
では、『甫庵信長記』はどのように評価されているのか。同書は基本的に儒教の影響を受けており、意図的な改竄や虚構を記すなど、問題が多い史料と指摘されている。
■問題がある理由
問題が多い理由の一つとして上げられるのは、甫庵が大名家に仕えるために執筆した点である。甫庵はおもしろい本を書き、諸大名から注目されようとしたのだ。したがって、歴史史料として用いられることは少ない。
元和8年(1622)に『甫庵信長記』が刊行されると、ユニークな逸話が多々収録されていることから、多くの読者を得た。その人気は、信頼度の高い『信長公記』をはるかにしのいだ。現代にたとえて言うならば、『甫庵信長記』は一種の流行小説のようなものだったのかもしれない。
■さらに問題がある『総見記』
ほかにも、信長に関する信頼度の低い二次史料はある。遠山信春の著作『総見記』である。同書は23巻という大部で構成されており、その成立は貞享2年(1685)頃である。信長が本能寺の変で斃れてから、百年も経過したのちの成立だ。ちなみに「総見」とは、信長の法名(総見院)である。
信春は『甫庵信長記』を一読して考証を深め、同書の訂正・補足を目的に刊行した。もともとは『増補信長記』というタイトルだったが、のちに『総見記』に改題されたという。『織田軍記』あるいは『織田治世記』と呼ばれることもある。つまり、『甫庵信長記』の亜流というべき書物だ。
■誤りが多く質が劣る
内容については信長の子孫に点検を依頼したというが、実際には誤りが大変多く、史料的な価値はかなり劣ると評価されている。
そもそも『甫庵信長記』の史料性が劣るわけなので、当然の結果と言える。こちらも質が悪いので、『甫庵信長記』以上に歴史史料として用いられることはない。
太田牛一の『信長公記』は信頼できる史料であるが、類似した書名の書物は似ても似つかないので、注意が必要である。