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【戦国こぼれ話】実はエリートの出身だった!謎多き北条早雲(伊勢宗瑞)の本当の出自とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条早雲と呼ばれたのは昔のことで、今では伊勢宗瑞と呼ばれている。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■意外と多い名門の出自

 会社などで「できる男(女)」というのは、両親や先祖が名門やエリートであることが少なからずある。優秀な遺伝子を受け継いだがゆえ、会社などでも注目される存在になるのだろう。

 実は北条早雲(伊勢宗瑞)もその一人で、かつてその出自に関しては諸説あった。しかし、今や早雲の出自については、驚くべき結論に達したのである。

■伊勢宗瑞とは

 皆さんは、伊勢宗瑞なる人物をご存じだろうか。伊勢宗瑞と言っても、わからない方がいるかもしれない。伊勢宗瑞とは、かつて「北条早雲」と称された人物である。早雲と言えば、下剋上の代名詞であり、北条五代の礎を作った人物である。

 今や研究においては北条早雲とは言わなくなったが、一般には未だに浸透していない。したがって、書籍の文中では「伊勢宗瑞(北条早雲)」というように、あえてカッコ書きで記すことがある。

 以下、宗瑞で表記を統一することにしよう。

■諸説あった出自

 従前、宗瑞は一介の素浪人から大名にまでのし上がったとされ、その出自についても、山城(京都府)、大和(奈良県)、備中(岡山県)といった諸説が提示されてきた。

 いわば宗瑞は謎の人物であるが、戦国ロマンが好きな人にとっては、やはり「一介の素浪人」のほうがしっくりくるかもしれない。

 最近の研究によると、宗瑞の出自について新しい見解が提示され、室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の一族であることが明らかにされた。

 文明8年(1476)、宗瑞は将軍・足利義尚の申次として、はじめて史上に登場したことが判明している。つまり、宗瑞は素浪人どころか、そこそこのエリートだったのだ。

■出身は備中

 宗瑞は備中国荏原荘(岡山県井原市)に本拠を置く伊勢盛定の次男で、もとの名を盛時という。実は、宗瑞自身が「北条早雲」と名乗ったことはない。

 北条早雲というのは、軍記物語などの俗称に過ぎないのである。したがって、現在では北条早雲ではなく、伊勢宗瑞とするのが正しいとされている。

■生誕年のことなど

 宗瑞の名前や出自については明らかにされたが、残念なことに誕生年は未だに確定していない。諸説あるなかでは、長らく永享4年(1432)説が支持されてきた。

 ところが、最近では康正2年(1456)説が有力視されている。ただ、いずれの説を採るにしても、年代的な矛盾が指摘されているので、定着するに至っていないのが実情だ。

 それだけでなく、宗瑞の妹・北川殿は、今川義忠の側室であるとされてきた。しかし、この点も宗瑞の生年と絡んで、疑義が提示されている。

 つまり、義忠に正室がいなかったこと、また宗瑞の家柄が名門の伊勢氏であるならば、正室であったとしてもおかしくないと指摘されているためである。さらに、北川殿は宗瑞の生年如何によっては、妹ではなく姉である可能性が高いという。

■戦国ロマンの否定

 とはいえ、関東に縁もゆかりもない宗瑞が、疾風怒濤のごとく伊豆、相模を支配下に収めたのは事実である。検地の実施や「早雲寺殿廿一箇条」を定めるなど、戦国大名の先駆的な存在として高く評価されている。

 やはり、一介の素浪人があっという間に大名にのし上がるのは戦国ロマンにすぎず、それなりの出自が影響したようである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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