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【戦国こぼれ話】遺産相続は早めに解決を!斎藤道三の譲状の真意とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
最近では終活が勧められている。あらかじめ遺言書も作っておくべきかもしれない。(写真:アフロ)

■戦国時代も相続は重要だった

 高齢化の時代にあって、相続の問題は非常に重要である。仲の良かった家族であっても、相続がきっかけとなって、バラバラになることも珍しくない。ましてや戦国時代はなおさらだった。

 斎藤道三は実子の義龍と険悪な関係となり、織田信長に美濃一国を譲る旨の遺言状を残したという。その真意は、どういうものだったのだろうか。

 

■遺言を残した道三

 「美濃の蝮」と称された斎藤道三の最期は、子・義龍に討たれるという悲惨なものであった。しかし、自身も主家の土岐氏を追放したのだから、因果応報とでも言うべきか。

 弘治2年(1556)、道三は息子との戦いを前に遺言書を残し、美濃を娘婿の織田信長に譲る旨を伝えたという。手紙のあて先は単に「児」となっており、実子の「日覚」か「日暁」のいずれかであると考えられる。

■遺言書の内容

 道三の遺言書は大阪城天守閣、京都の妙覚寺に写しが残っており、軍記物語の『江濃記』にも記録されている。それを現代語訳すると、次のようになる。

改めて手紙を送った理由は、美濃国大桑(岐阜県山県市)で最終的に織田信長の考えに任せることにし、美濃を与えるとの譲状を信長に送ったので、まもなく援軍を送ってくれるようだ。その方は約束どおり、京都・妙覚寺で出家した。一人の子供が出家すれば、一族が救われるという。このように手紙を書いていても、涙が溢れて来る。(中略)すでに明日の一戦に及んでは、五体不具で死ぬのは疑いないだろう。(以下略)。

 

 文面からは道三らしくなく、いささか弱々しい印象を受ける。道三にとって、もはや頼るべきは娘婿の信長しかいなかったのだ。

■遺言の背景

 道三の子息・義龍は実子でなく、主の土岐頼芸の子との噂が流れており、道三と義龍の関係は複雑であった。また、道三は日頃から義龍を無能呼ばわりしており、逆に娘婿の信長には非常に好印象を持っていた。

 当然ながら義龍は、道三に悪い感情を抱いていたに違いないし、もし自分が土岐頼芸の子であると信じていれば、実の父を追って国主の座を奪った道三を憎んでいてもおかしくない。

 いや、実際はそうでなかっただろう。道三は家臣からの支持が得られなくなっており、もはや死に体だった。そこで頼りにされたのが、子の義龍だった。

■道三の最期

 道三と義龍の父子は交戦したが、敗勢濃くなった道三は義龍の戦いぶりを見て、いささか後悔の念があったという。それほど義龍の戦いは、見事だったといえよう。道三が信長に美濃を与えるとの譲状を送ったのは、せめてもの抵抗だろうか。

 遺言状を認(したた)めた翌日、道三は義龍の配下に首を取られ、非業の最期を遂げたのである。なお道三を討った義龍は5年後の永禄4年(1561)に病死し、その跡を子の龍興が継いだ。

 結局、道三の遺言は実現しなかった。その後、信長は実力で美濃国を奪取したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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