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【戦国こぼれ話】思いやりの精神は重要だ。上杉謙信はライバルの武田信玄に塩を送ったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
義の武将と称された上杉謙信。武田信玄に塩を送った話は、事実だったのだろうか?(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■思いやりの精神はいずこへ

 昔の日本には人情があった。近所の人同士での助け合いなどは、その好例といえるかもしれない。しかし、今や老人から金を騙し取るなど、不幸な事件が相次いでいる。大学生も加担する例があるのだから、情けない限りである。

 ところで、越後の戦国大名・上杉謙信のライバルといえば、甲斐の戦国大名・武田信玄である。2人の間に、麗しい友情話があったのはご存じだろうか?

■三国同盟の破綻

 信玄は謙信と戦っていたが、北条氏、今川氏といった関東、東海地域の大名とも同盟と離反を繰り返していた。周知のとおり、永禄3年(1560)に桶狭間合戦で今川義元が織田信長に敗れ横死した。義元の死により、状況は大きく変わった。

 義元の死後、今川家の当主の座に着いたのが氏真であった。ところが、氏真が家督を継いでから、今川家の家運は傾き、存亡の危機に立たされていた。

 かねて武田氏、北条氏、今川氏の間では、三国同盟を締結し平和を維持していた。しかし、今川氏の弱体振りを目にした信玄はこれを破棄し、永禄10年(1560)に今川氏領国である駿河国へ侵攻を企てたのである。

■今川氏真の塩留

 三国同盟は相互に婚姻までして交わしただけに、氏真の怒りは尋常ならざるものがあった。氏真は隣国の北条氏と結託し、武田氏に経済制裁を行うことになる。これが、有名な「塩留」であり、氏真は塩を甲斐へ送ることを禁じた。

 武田氏領国の甲斐は、四方を陸で囲まれ海がなかった。塩を入手することができない。したがって、塩の貿易を断たれると、途端に窮地に陥ったのだ。

 塩は食事の味付けにも必要であり、健康な生活を送るうえでも不可欠であった。塩の不足した武田氏領内では、領民が苦しんだといわれている。

■手を差し伸べた謙信

 ここで意外な人物が信玄に手を差し伸べた。その人物こそが、信玄のライバル・上杉謙信だったのである。謙信は「塩留」をした氏真の行為を卑怯と断じ、越後から甲斐に塩を送ったのである。これは、誠に意外なことだった。

 しかも、信玄の足元を見て高値を吹っ掛けるのではなく、良心的に通常のレートで売り渡したという。これには、信玄をはじめ甲斐の領民も随喜の涙を流して感激した。

 謙信の行為に対して、信玄は福岡一文字の太刀「弘口」を送ったという。この太刀は、別名「塩留の太刀」と称されている。

■単なる逸話で裏付けはない

 ところで、以上の話は、たしかな史料によって裏付けられるものではない。また、氏真が「塩留」をしたとの記録も残っていない。近世に成った逸話にすぎないのだ。

 この逸話は、謙信が名君であることを後世に伝えようとしたものだろう。とはいえ、日本人が人情を重要視していたことを示唆するもので、誠に興味深い。

 いずれにしても、困った人を見かけたら、やさしく手を差し伸べるようにしたいものだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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