【戦国こぼれ話】仇になった直言。徳川家康に直言した男の運命とは!?
■直言は仇となるのか
官邸主導になりつつある現代の日本政治。官邸の命に従わない官僚には、異動も辞さないという話をちらほら聞く。直言は耳に痛いところであるが、それはポイントを突いているからだろう。
実は、直言をして飛ばされるというのは、今にはじまったことではない。ここでは、徳川家康に直言した例を取り上げてみよう。
■健康オタクの家康
家康に健康上の直言をして、流罪になったケースがある。家康には、侍医として片山宗哲なる医師が付いていたといわれている。
宗哲は山城国出身の医師であるが、その生涯には不明な点が多い。しかし、宗哲は家康に対して、いささか直言が過ぎたようである。
家康は食生活に気を遣っており、また体調を気遣い薬にも精通していた。家康が健康と長寿を保ちえたのは、そのおかげだったのだろう。
一説によると、家康が「健康オタク」であることは、よく知られた事実である。家康の好物はてんぷらで、いささか食べ過ぎることもあったという。
■直言した宗哲
元和2年(1616)3月、家康の腹部に腫瘍らしきものが発見された(以下『寛政重修諸家譜』)。医学に精通していた家康は「寸白(寄生虫のサナダ虫)」が原因と自分で診断し、万病円という丸薬を服用することにした。万病円とはその名のとおり、万病に効く万能薬だったようである。
これを聞いた片山宗哲は家康の体調を気遣い、万病円は大毒の薬なので、逆に体を痛める可能性が高く、服用を控えたほうがよいと直言した。
ところが、家康は宗哲の言葉を聞き入れるどころか、逆に機嫌を大いに損ね、信濃国に流すことにしたのである。宗哲の流された地は、信濃国の諏訪高島(長野県諏訪市)であったという(『本光国師日記』)。
無念にも、宗哲は失脚したのだ。
■許された宗哲
徳川家康が亡くなったのは、翌月の4月17日のことであった。ちなみに宗哲は2年後の4月に秀忠に許され、江戸に戻ることができた。
このケースでは権力者の勘気を蒙って、流罪に処せられたということになる。ただ、不思議なことに宗哲の知行地は没収されることなく、そのままであったという。
つまり、宗哲の直言は正しかったことになるが、相手の顔色をうかがってから発言することも大切なようだ。