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【戦国こぼれ話】安土城の再建には数百億円!織田信長が築城した安土城とはどんな城なのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安土城の天主台跡。これまでの中世城郭と比較にならない巨大さだったという。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■再建に掛かる莫大な経費

 織田信長の居城だった安土城(滋賀県近江八幡市)は、現在もその威容を保っている。しかし、残念なことに天主(天守)が焼けてしまったので、大変惜しまれるところだ(以下、安土城は「天守」ではなく「天主」)。滋賀県は天主の再建を悲願としているが、木造で約505億円、コンクリート製でも約300億円が掛かると試算されている。

 では、安土城とは、いったいどのような城なのだろうか。

■そもそも安土城とは

 天正4年(1576)、近江六角氏を排除した信長は、満を持して安土城の築城に着手した。普請総奉行は丹羽長秀が務め、奉行には森三郎左衛門、大工頭には熱田大工の岡部又右衛門が任じられた。石垣普請には坂本(同大津市)の穴太(あのう)の石工らが動員され、11ヵ国から労働者が集められた。

 安土城は六角氏の居城であった観音寺城(滋賀県近江八幡市)をモデルにして総石垣で築かれており、山城から平城に移行する過渡的な形式だったといわれている。信長は子の信忠に岐阜城(岐阜市)と家督を譲り、安土城に本拠を移したのだ。

 信長が岐阜から安土に拠点を移したのには、(1)敵対関係にあった越後の上杉謙信への対策、(2)未だに勢力を持った北陸の一向一揆の監視、という2つの理由が考えられている。さらに付け加えるならば、安土は岐阜よりも京都に近く、琵琶湖の水運を活用できる大きなメリットがあった。

 城は琵琶湖に突き出ており、麓から山頂まで約100mの安土山に曲輪(くるわ)が配置された。さらに、家臣の屋敷は本丸、二の丸を中心として、それぞれ一つの曲輪の形になっていた。巨大な城である。

■安土城の天主とは

 現在、安土城の天主は失われ、その威容を示しているのは、壮大な石垣の遺構だけである。しかし、焼失前の安土城は、五層七重の天主が聳え立っていたという。その姿は、フロイスの手になる『日本史』などによると、安土城の天主は次のように記されている。

 1.天主は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

 2.内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしていた。

 3.外部は階層ごとに色が分かれ、黒い漆塗りの窓が配された白壁、ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色であった。

 4.天主は華美な瓦で覆われており、前列の瓦には丸い頭が付けられ、屋根には雄大な怪人面が付けられていた。

 5.障壁には絵師・狩野永徳の絵が描かれ、書院、納戸、台所などが客間として備わり、座敷は畳敷きだった。

 ただし、安土城の天主は現存しないため、古くから『日本史』、『安土日記』、「安土山御天主之次第」(『信長公記』)などの史料によって、激しい論争が行われてきたが、未だ決着をしていない。再建をしようにも、どの記録を採用するのか実に難しい問題である。

 天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺の変で横死し、山崎の戦いで明智光秀が討伐されると、6月15日に安土城の天主およびその周辺の建造物は焼失した。焼失した理由については、次のように諸説ある。

 『秀吉事記』『太閤記』によると、明智秀満軍が敗走の際に放火したという。しかし、秀満は6月15日に坂本城(滋賀県大津市)で堀秀政の軍に包囲されていたので、この説は誤りと考えられている。宣教師の記録によると、織田信雄が明智の残党を炙り出すため放火したとある。このように土民や落雷による放火などの説もあるが、真偽は不明だ。

■安土城下の様相

 天正5年6月、信長は城下町安土を新しい商業、交通の拠点とするため、「13ヵ条の掟書」を発布した。信長の経済政策である楽市楽座令の典型であり、非常に有名なものである。

 本文は、文字どおり13ヵ条から成っており、主要な規定を掲出すると、次のようになろう。

 第1条――安土の山下町中を楽市と定め、座の特権を廃止し、山下町住人に対する諸課役、諸公事の賦課を免除すること。

 第2条――中山道往還の商人は、安土に寄宿することる。

 第13条――近江国内の博労(ばくろう。牛馬の仲買人)の馬売買を山下町に限定するほか、城下町繁栄のための住人の保護や町内の治安、統制に関する条項。

 信長の楽市楽座令は、ほかにも美濃加納(岐阜市)、近江金森(滋賀県守山市)の例がある。しかし、いずれも条文は、3ヵ条と極めて少ない。「安土山下町中掟書」は、もっとも豊富な内容であるといえよう。また、16世紀末から17世紀初頭における、城下町の建設や取締りについての都市法の先駆的なものであると指摘されている。

 この「13ヵ条の掟書」は、豊臣秀次が天正14年(1586)6月に出した掟書に受け継がれており、内容はほぼ踏襲されている。城下は安土から近江八幡に移されたのであるが、同時に信長の政策基調も継承されたことになろう。安土城は城としての評価も高いが、城下町も整備されていた。まさしく天下人の信長にふさわしい城だったと言えるのだ。

■難しい再建

 実は、観光の目玉として、天守を再建したという自治体はたくさんある。その際、必ず問題となるのが、その城の図面が残っているかということである。江戸時代の城の場合は残っていることがあるが、戦国・織豊期の場合は残っていないことが多い。

 そうなると、復元案を作成し再建することになるが、専門家によって意見が違うことも往々にしてあるので、すぐには決まらない。そして、問題になるのが費用の負担である。自治体財政が厳しい昨今、入場料などで再建費を回収できる見込みがないと、厳しいのが現状であろう。

 果たして、安土城の天主は再建されるのだろうか。 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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