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【「麒麟がくる」コラム】いったい明智光秀はどこで生まれたのか!?近江佐目出自説を検証する!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
滋賀県多賀町に所在する多賀神社。明智光秀も参拝したのだろうか。(写真:satoshi_0_0v/イメージマート)

■またまたあらわれた光秀の出自に関する新説

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、再開後も好調。視聴者は、次の回が待ち遠しいはずだ。主人公の光秀の出自については、美濃の土岐明智氏出身をはじめ、若狭小浜(福井県小浜市)などの説がある。近年クローズアップされているのが、光秀が近江佐目(滋賀県多賀町)の出身であるという説である。新聞報道などで瞬く間に広がっていったので、きっと耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。

■どんな史料に書かれているのか?

 近江佐目出身説の根拠史料は、『江侍聞伝録』(ごうじもんでんろく。寛文12年・1672成立)、『淡海温故秘録』(おうみおんこひろく。貞享年間・1684~88成立)という編纂物で、ともに光秀の没後から約100年後に成立した二次史料だ。二次史料とはのちになって編纂された史料のことで、地誌のほか軍記物語や系図などが代表的なものである。

 成立が遅い『淡海温故秘録』は地誌(郷土誌などの類)で、成立が早い『江侍聞伝録』は中世における近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記した史料だ。『江侍聞伝録』も『淡海温故秘録』も光秀の出自について書いている内容はほぼ同一であり、実は以前から知られていたことである。次に、内容を紹介しておこう。

 美濃土岐氏の流れを汲む明智十左衛門なる人物は、主の土岐成頼のもとを飛び出し、近江国へとやって来た。やがて、明智十左衛門は近江守護の六角高頼の庇護を受け、近江佐目の地に安住した。それから2・3代あとになって、佐目の地で誕生したのが光秀だというのだ(出生年は書いていない)。

 美濃守護の土岐成頼は嘉吉2年(1442)に誕生し、明応6年(1497)に亡くなった。近江守護の六角高頼は生年こそ不明であるが、永正17年(1520)に亡くなったのは事実なので、二人はほぼ同時代の人物である。年代については矛盾がないことから、明智十左衛門が近江にやって来たのは、15世紀後半頃と推測される。

 この話が事実とするならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目ということになる。地元には、光秀に関する逸話・伝承の類も伝わっている。現在も佐目の地には「十兵衛屋敷の跡地」、光秀にゆかりがあるという「カミサン池」(池の跡)などの関連史跡が残っている。つまり、佐目地域に光秀関連の史跡が残る理由は、『江侍聞伝録』などの二次史料で裏付けられたことになる。

 『江侍聞伝録』、『淡海温故秘録』の記述に基づき、一部の研究者の間では、光秀が近江佐目の出身であることは間違いないと確信する向きもある。「光秀佐目出身説」は揺るぎない確固たる説となりつつあるが、果たして「光秀佐目出身説」は正しいと考えてよいのだろうか。

■成り立ち難い近江佐目出身説

 光秀の出身地について一次史料(同時代の古文書や日記など)に書かれているものは乏しく、多くは質の劣る後世の編纂物や系図などの記述に拠っている。『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』も記述内容に不審な点があり、史料としての質に問題がある。地元に伝わる伝承の類なども検証の必要があろう。

 大半の二次史料は何らかの意図があって編纂されるが、この場合の意図ははっきりしない。光秀と近江の土豪との関連性を考慮すべきかもしれない。たとえば、次に示す逸話が記載されている。

 天正10年(1582)6月、光秀は本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉と対決して敗北すると、近江の土豪らが光秀の援軍に駆け付けた。近江の土豪らが援軍に馳せ参じたのは、光秀が近江で生まれたからであるという。ところが、近江の土豪らが光秀の応援にやって来たことは、一次史料によって裏付けることはできない。

 また、光秀は「大黒天を信仰すれば1000人を従える大将になれる」と言われたが、「1000人では物足りない」と大黒天を捨てたという逸話が書かれている。光秀の野心家の一面をうかがわせる逸話であるが、事実か否かは不明である。いや、単なる創作に過ぎないだろう。

 そもそも『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』の記述は時系列がきちんと書かれておらず、信憑性に欠ける。光秀の父の名前も書いていないうえに、系譜すらも明確ではない。単に十左衛門の2・3代後に光秀が誕生したと記すだけで、いつ頃まで光秀が佐目に居住していたのかも記していない。

 現存する一次史料には、光秀が近江出身だったと書いているものがない。天正10年6月6日付の明智光秀禁制が「多賀神社文書」のなかに残っているが、この史料は光秀が近江で生まれたことの証明にはならない。本能寺の変に関連して、光秀が多賀神社の求めに応じて発給しただけである。光秀の近江佐目出身説はたしかな史料で裏付けできないのだから、正しいと認めるわけにはいかないだろう。

■はっきりしない戦国武将の出自

 当時、光秀のように出自が明確でない戦国武将は多かった。光秀の出自を示した『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』は、ほかの系図類よりも成立は早いかもしれないが、成立年の早さは史料の内容を担保するものではない。あくまで内容が問題であり、両書の記述内容は十分なものとはいえない。

 信憑性が低い二次史料の場合、これまでにない新しい記述を発見すると十分な検証を踏まえず、すぐに採用することは慎むべきだろう。一次史料による裏付けや史料の性質を見極めるなどし、慎重になることが重要であると思う。たとえ、それが一次史料であっても同じである。

 もちろん『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』が使えない史料であるとか、光秀に関する逸話・伝承は嘘ばかりだと切り捨てるわけではない。文化史的な観点から光秀が近江佐目で生まれたことを分析すれば、新たな価値を見出すことが可能である。二次史料は歴史史料としては使いにくい面があるが、別の観点から用いれば、大いに生きてくるのである。史料には、一級も二級もないのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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