【戦国こぼれ話】菅官房長官の好みはナンバー2!?豊臣秀長ってどういう人!?
■偉大なるナンバー2
2020年9月3日、菅義偉官房長官はスポーツ紙の取材に応じた。菅氏の好きな戦国武将は豊臣秀長で、ポジションが一番の人に興味がなかったと話したという。とはいえ、世間一般の人にとっては、豊臣秀長と言っても、ピンとこない方がいるのではないだろうか?以下、秀長とはどういう人物なのかを解説しよう。
■豊臣秀吉の弟だった秀長
秀長が豊臣秀吉の弟として誕生したのは、天文9年(1540)。秀吉より3つ年下である。小竹、小一郎と称され、のちに長秀と名乗った。その後、秀長と改名したのである。秀吉は武士の出身でなく、頼るべき譜代の家臣がいなかった。そこで、秀吉がもっとも信頼を寄せたのが弟の秀長である。
秀長は秀吉の活躍とともに、世に知られるようになる。織田信長に仕えていた秀吉の命に応じて、各地を転戦。大いに軍功を挙げた。秀長に転機が訪れたのは、天正10年(1582)6月の本能寺の変だ。兄の秀吉は信長を自害に追い込んだ明智光秀を討伐。信長の後継者として、天下人への名乗りを挙げる。
その後、秀吉は徳川家康、柴田勝家らのライバルを蹴散らし、天正13年には関白の座についた。同じ年に秀長も岡山(和歌山市)に居城を築き、紀伊・和泉両国に64万石を与えられたのである。
秀長は領民に思いやりある政治を行い、一方で見事なまでに家臣団を統制したという。まさしく理想の政治を行ったといえよう。以後も、秀吉の命に従って四国征伐に出陣し、勝利に貢献したのである。そして、その功により大和44万石を加増され、郡山城(奈良県大和郡山市)に本拠を移したのだ。
■信頼が厚かった秀長
秀長が大出世を遂げた理由は、秀吉の弟だったからという事情もあろう。とはいえ、秀吉が秀長に全幅の信頼を寄せていたことは明らかである。
天正14年、九州では薩摩島津氏が威勢を増しており、対立していた豊後大友氏が窮地に陥っていた。困った大友宗麟は、秀吉に支援を依頼すべく上洛した。その際、秀吉は「内々のことは千利休に相談し、公儀のことは秀長に相談するがよい」と述べたという。
つまり、秀長は豊臣政権の中枢にあって、大名統制の一環を担っていたと考えてよい。こうした役割を秀吉が秀長に与えたのは、単に弟だからという理由に止まらないはずだ。有能だったからである。
秀吉は性格が非常に苛烈で、諸大名に厳しい態度で臨むことがあった。一方の秀長は性格が柔和で、温厚篤実だったと言われている。まさしく「剛」の秀吉と「柔」の秀長が両輪となって、豊臣政権をけん引したと言っても過言ではない。秀長は、秀吉にとって欠かせざる存在だったのだ。
とはいえ、秀長には負の側面もあった。天正15年の九州征伐の際には、出陣した諸大名に対して、高額な兵糧を売りつけようとしたという。これは秀吉によって止められた。ほかにも配下の者が材木の代金を着服したので、秀吉の勘気を被ったこともあった。
■ナンバー2の最期
このように秀吉とともに豊臣政権を支えた秀長であったが、天正19年に52歳の若さで病没した。あまりに若すぎる死だった。「もし秀長が長生きしていれば、豊臣政権の行く末は違っていたはず」という人もいるが、それは仮定の話であって、実際にどうなったのかは誰にもわからないことである。
ところで、ナンバー2と違って、トップの座につくことは、計り知れない重みがあるのは事実だ。最終的に政権におけるすべての責任を負わなくてはならない。トップを支えるナンバー2とは、雲泥の差である。自民党総裁選は情勢が混沌としているが、誰が総裁の座についても、国民のためにがんばってほしいものだ。