■注目される足利学校

 戦国時代の教育機関として名高い足利学校(栃木県足利市)の大成殿(たいせいでん)の保存修理工事が無事に終了し、記念式典が2020年8月29日に催された。誠にすばらしいことである。ところで、世間では足利学校が軍師養成学校と言われているが、それは事実とみなしてよいのだろうか?

■難しかった中国や日本の古典

 戦国武将にとって刀、弓、槍、鉄砲など武芸の鍛錬が必要である一方、座学である兵法書を学ぶことも大きな比重を占めていた。その中には『論語』、『中庸』、『史記』、『貞観政要』などの中国の古典に加え、『延喜式』『吾妻鏡』といった日本の典籍など、為政者としての心得を学ぶための書物も含まれていた。ただ、戦国武将がそのまま読むには難解だったため、講義を受けることもあった。

 兵法書には、武経七書と称される『孫子』、『呉子』、『尉繚子』、『六韜』、『三略』、『司馬法』、『李衛公問対』が代表的なものとして存在する。それらの書物は、すでに奈良・平安時代に日本に入っていたという。しかし、これらの書物は日本の古典と同じく難解で、とても戦国武将がすらすらと読めるものではなかった。

 つまり、多くの戦国武将は古典を読むのが困難で、講義を受ける必要があった。その講義を行ったのは、当時の知識人である僧侶だったのだ。そして、中世には足利学校で多くの僧侶が学んでいた。

■足利学校は軍師養成学校!?

 足利学校は儒学、易学、漢籍、兵法、医学などを学ぶ教育機関であり、その卒業生が戦国武将に兵法書の講義をすることもあった。足利学校の歴史が明らかになるのは、室町時代中期頃である(成立年は諸説あり)。鎌倉から禅僧の快元(かいげん)を招き初代庠主(しようしゅ。校長)とし、学問の興隆と学生の教育に力を入れた。その後、関東管領の上杉憲忠が易経『周易注疏』を寄進し、子孫の憲房も貴重な典籍を送ったという。

 足利学校の卒業生は、そのまま僧侶となる者もいたが、僧籍にありながら戦国大名のブレーンになる者もいた。

 小早川隆景は、足利学校出身の玉仲宗□(□は王ヘン+秀。ぎょくちゅうそうしゅう)と白鴎玄修(はくおうげんしゅう)の二人を、鍋島直茂も不鉄桂文(ふてつけいぶん)を招いていた。直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博(こてつそはく)がいた。徳川家康のブレーンである天海も、足利学校の卒業生である。天海は「黒衣宰相」と称され、政治へ強い影響力を保持した。

 彼ら僧侶は古典の読み方を教えるだけでなく、ときに政治ブレーンや外交(ほかの大名との交渉)などでも活躍した。戦争になると、軍配師として吉凶を占い、出陣の日取りなどを進言することがあった。彼らのことを軍師と称することもあるが、戦国時代には軍師という言葉はなかった。軍配師というのが正しい。武田氏配下の山本勘助といった軍師の活躍は、おおむね後世に成った二次史料に書かれたもので、史実とみなし難いのが大半である。

■誤解があった足利学校

 永正・天文年間(1504~54)の足利学校には、約3000の学徒が在籍したと言われ、これは日本で最大の規模であった。天文18年(1549)に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると称えたという。多くの俊英が集まったのは事実である。

 足利学校は軍師養成学校と称されるが、それは誤解である。彼ら僧侶は中国の古典に優れた知識を持ち、また軍配の際の占いや易学に精通していたので、そう呼ばれたに過ぎない。そもそもが軍師という言葉が当時は存在しなかったのだから、軍師養成学校とは言い難いであろう。

 つまり、足利学校で学んだ僧侶が戦国大名に仕えた際の役割は、古典の講義、政治ブレーンやほかの大名との交渉役、そして合戦の出陣の日取りなどを占うことなどで、われわれがイメージするような空想的な軍師としての役割ではなかったのだ。