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『らんまん』田邊教授(要潤)が、万太郎(神木隆之介)を追い詰めるのは、なぜか?

碓井広義メディア文化評論家
筆者撮影

NHK連続テレビ小説『らんまん』。

様々な紆余曲折はあっても、自分の思うように研究を続けてきた万太郎が今、大きな試練にぶつかっています。

植物学界のドン、田邊教授(要潤)から突然、大学研究室への「出入り禁止」を言い渡されてしまったのです。

この状況、「史実」ではどうだったのでしょうか?

牧野富太郎と矢田部教授の確執

万太郎のモデルは牧野富太郎。

そして田邊教授のモデルは、東京帝大・植物学教室の矢田部良吉教授です。

1889(明治22)年、牧野は大発見をしました。以前から研究していた植物を、新種として発表したのです。

小さな花をつけるこの植物の和名を「ヤマトグサ」、学名は「テリゴヌムヤポニカ」としました。

日本の新種植物を、日本人が発見し、学会で発表して、自身の手で名付ける。それまでになかったことであり、堂々の快挙です。

さらに翌1890(明治23)年。江戸川近くの用水池で、見たことのない水草を採取しました。しかし、新種かどうかの判断がつきません。

牧野は矢田部教授に教えてもらおうとしますが、すぐには分かりませんでした。教授は文献を調べ、その水草の図を見つけます。

それは新種ではありませんでしたが、ダーウインが残した資料にも載っている、珍しい食虫植物でした。

しかも、北東アジアで発見された記録がありません。日本で見つけたことは大発見であり、「ヤマトグサ」に続く快挙でした。

牧野はこの水草を丁寧に観察し、小さな花をつけることも確認。「ムジナモ」という和名を付けました。

そんな牧野の「ムジナモ」研究は、その精緻さで世界から賛辞を受けたのです。

こうした活躍が、矢田部の苛立ちを増幅させていたことに、牧野は気づいていません。

矢田部から見れば、牧野がやっていることは、大学が公費でそろえた資料の「私物化」であり、植物学教室を「踏み台」として世に出ようとする行為だったのです。

しかも、研究者として自分より目立つことが、何とも気に障るようになっていました。

牧野富太郎にも問題アリ!?

このあたり、牧野にも問題がなかったとは言えない面があります。

確かに植物学者としてのセンスと力量はずば抜けていました。また成果も挙げています。

周囲から敬意を払われていることもあり、教室では文献や標本を自由に使っていました。

また若い教授や年上の助教授の研究にも、良かれと思って遠慮なく口出しをします。

それが的確なアドバイスであっても、言い方がストレートで、相手のプライドには無頓着ですから、憮然とする人も多い。

そんな教室内の様子に矢田部も気づいていたようです。

牧野には悪意もないし、傲慢でもないのですが、一般的な意味の謙虚さも持っていない。

純粋といえば、純粋。どこまでも「坊ちゃん育ち」であり、同時にかなりの「困ったちゃん」でした。

「男の嫉妬」の怖さ

学歴もない無名の若者が、自分の牙城である植物学教室の中で、異様な存在感を示している。

それは矢田部にとって許しがたいことになっていたのです。

権威ある帝大教授を突き動かしていたのは、強烈な「妬(ねた)み」でしょう。しかし、「男の嫉妬」ほど怖いものはありません。

矢田部は、もしも「植物の神様」がいるなら、その神に愛されているのは自分より牧野だと知っていたのです。

理屈ではないだけに、厄介な感情でした。

嫉妬は敵意へと転じ、研究室への「出入り禁止」宣告となってしまいます。

矢田部は、牧野を「部外者」扱いにしたのです。

大きな「山場」の一つに

こうした史実をベースに、ドラマでも、田邊教授が万太郎を追い詰めていきます。

「土足で入ってきた泥棒」とまでののしられた万太郎。

果たしてどこまで教授の「心の闇」を分かっているのか。そして、この苦境をどう切り抜けていくのか。

笑顔に満ちていた「らんまん人生」は、大きな山場の一つに差し掛かったようです。

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

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