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「働く人のメンタル不調は損失」英国最大級の投資機関が企業に対策求める効果とは

海原純子博士(医学)・心療内科医・産業医・昭和女子大学客員教授
写真はイメージです。(写真:イメージマート)

英国投資機関が世界100社のメンタルヘルス対策を評価

コロナ禍前の2017年、英国では年間30万人以上の働く人々が精神的な理由で離職をしていることが報告されていて、その経済的な損失が政府をはじめ投資家たちの間で問題となっていました。コロナ禍が始まるとメンタル不調者がさらに増加する中、投資家たちの危機感がさらに高まり、企業に対しメンタルヘルス対策を体系立てて評価する仕組みを作ろうという動きが加速しました。そうした中で、メンタルヘルスへの取り組みという視点で企業を評価する基準(Benchmark)を、英国最大規模の投資運用機関のCCLA―Charches,Charities and Local Authorities―が外部委員を含む専門家委員会の協力のもと作成しました。日本ではなじみがないかもしれませんが、CCLAは教会や地方自治体など非営利団体のための投資運用機関であり、環境維持や持続可能な社会への貢献を目指す活動をする立場で投資対象に働きかける機関として信頼されています。ヨーロッパでは企業の経営が持続可能で企業ガバナンスが保たれ環境保護や社会貢献などに気を配っているかなどを投資家が判断材料にしていて投資家要請型の健康経営が行われています。

評価基準内容

ダイバーシティーも大きな要素

この企業評価指標(ベンチマーク)はメンタル対策に関する企業の在り方・姿勢を問う27項目からなり

1.メンタルヘルスへの取り組みの方針が明確か

2.企業CEOがメンタルヘルスへの取り組みにリーダーシップの役割をしているか

3.メンタルヘルス対策の運営と管理

4.ホームページなどでの情報公開

が柱となり、雇用体制や親会社、子会社による待遇や賃金格差による不平等感の是正、ジェンダー平等、ハラスメントのない職場作りのほかワークライフバランスについての取り組みが行われているかなども評価基準の中に含まれています。とくに気持ちよく働ける職場作りについてCEOが積極的に取り組んでいるかということもポイントになっています。

https://www.ccla.co.uk/mental-health

メンタルヘルス対策というと、不調をきたした従業員への働きかけなど個人に対する働きかけの有無が問われることが多いのですが、この指標は企業自体が職場環境を「ウェルビーイングにする」ために必要な取り組みをしているか否か、またそうした取り組みを情報発信しているかを体系化していることが大きな特徴です。

こうした基準について各企業のホームページの記載とCEOへの質問状をもとに評価を行うという試みが2022年スタートし5月26日に英国内の従業員1万人以上の上場企業100社を対象にした調査結果を「CCLA Corporate Mental Health Benchmark UK 100 」として公表しました。評価はベンチマーク達成率を5段階に分け、達成率81~100%の第1グループから達成率0~20%の第5グループまでに分類され企業名が公表されました。ただこうした評価は企業を点数付けすることが目的ではなくメンタルヘルス対策について企業全体として体系化して取り組むための参考にしてほしいということだとCCLAのベンチマーク策定の責任者エイミー・ブラウン氏は言います。

CCLAGlobal 100 Benchmarkより
CCLAGlobal 100 Benchmarkより

この発表は英国内で大きな反響を呼び、グループ2に評価されたメガバンクのHSBCホールディングスは公表の4日後にホームページで、次回の評価では100%を達成することを明記して今後の企業内メンタルヘルスへの取り組みを発表しています。これに続いて多くの企業が自社の取り組みを発表しています。

さらにこの評価は英国に続いて、株価指数(MSCI ACWI)を構成する世界を代表するグローバル上場企業のうち従業員1万人以上のトップ100社について評価を行い、2022年10月10日の世界メンタルヘルスデーには、「Corporate Mental Health Benchmark Global 100」が発表されました。日本の企業はトヨタ自動車とソニーグループの2社が評価対象となりグループ4に入っていました。

このベンチマークがユニークなのは、単なる評価を行うことが目的ではなくベンチマークを活用して働きやすい職場作りをする目安にしてほしいということです。昨年10月に発表された報告書には各企業が行っているメンタルヘルス対策で優れた内容の取り組みを紹介していることです。具体的にどうすればいいかわからない、という企業も多い中で他社の優れた取り組みは参考になると思われます。グループ4や5に入っている企業でも、例えばソニーグループの場合、メンタル不調が疑われる社員を産業医などの支援につなぐ体系化されたシステムが紹介されていました。

CCLA Global 100 Benchmarkより
CCLA Global 100 Benchmarkより

CCLA Global 100 Benchmark より
CCLA Global 100 Benchmark より

世界のトップ100社では

1.グローバル企業のCEOのうち、職場のメンタルヘルスの重要性を表明しているのはわずか19%

2.グローバル企業はメンタルヘルスプログラムに多大な投資を行っているが、これらの取り組みに関するガバナンスやモニタリングが不十分

3.職場のメンタルヘルスと経営との間に密接な関わりがあることを表明している企業はわずか28%などが明らかになりました。つまり、メンタルヘルスは大事だと認識してはいるが、それを企業トップがはっきり表明して企業ガバナンスとして打ち出してはいないという傾向が明らかになりました。

前回の評価でグループ2に入っていたHSBCホールディングスは半年の間に問題点を改善してグループ1に入っています。自社のメンタルヘルス対策の指標を明確化して情報公開するなどの取り組みがなされています。

CCLAGlobal 100Benchmarkで紹介された各企業の取り組み例

CCLAGlobal100Benchmarkで紹介された各企業の取り組み例

日本企業のメンタルヘルス対策との違い

22年7月に発表された厚労省の「21年度労働安全衛生調査」(全国の約1万4千事業所についてオンラインで実施)によりますと、20年~21年にメンタル不調により連続1カ月以上休職したり退職したりした従業員がいる事業所は10.1%で、前年度の9.2%から増加する一方でメンタルヘルス対策に取り組んでいる事業所は59.2%で前年度の61.4%から低下しています。コロナ禍でメンタル不調が増えているものの事業所の対策は手薄になっている状況がうかがえます。

日本でとられている対策は、主にメンタル不調に陥った従業員個人への支援・教育・研修などが中心できめ細かく行われている一方、企業の在り方に起因する雇用形態による賃金格差や男女格差、ハラスメントによるストレスに関しては手を付けていないことが多い状況です。その大きな要因は賃金格差やハラスメント、コミュニケーション不全がメンタル不調に影響するという認識が十分ではなく、メンタルにかかわる問題ではなく労働問題として扱われていること、また弱い人がメンタル不調に陥るという認識が根強く残っていてメンタル不調に関してオープンに話し合える雰囲気が十分ではないこと、メンタル対策などは人事総務が担当することであり企業トップは業績アップに集中すればよい、という考えが主流であることが背景にあると思われます。

適応障害の背景にある格差ストレスにも目を向ける必要

入社や転勤の社員が増える春以降増加する適応障害は、その社員の心身状態の改善、働く環境の整備、サポート体制の充実が必要不可欠な条件となりますが、本人に対する支援は行われている一方、適応障害をおこす環境要因としての格差やハラスメント対策については手薄であることを産業医として感じることがしばしばです。非正規雇用の従業員と正社員の間には賃金格差だけではなく健康状態の格差があることが指摘されていますが、そうした問題は企業にとっては触れてほしくないことかもしれません。ただメンタル不調者が増えると企業全体としての損失は明らかです。メンタルヘルス対策にかける費用を損失ではなく投資としてとらえる考え方にシフトする必要があると思われます。世界のグローバル企業ではCCLAベンチマーク評価をきっかけに、メンタルヘルス対策の企業ガバナンスとしての取り組みを発表しています。気持ちよく働ける職場作りに関して企業トップが関心を持ちリーダーシップを発揮することが不可欠といえます。特にヒエラルキー構造が強い企業では、企業トップがはっきりと企業内のメンタルヘルス対策を打ち出し発信することで企業内の意識の変化が起きると思われます。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

博士(医学)・心療内科医・産業医・昭和女子大学客員教授

東京慈恵会医科大学卒業。同大講師を経て、1986年東京で日本初の女性クリニックを開設。2007年厚生労働省健康大使(~2017年)。2008-2010年、ハーバード大学大学院ヘルスコミュニケーション研究室客員研究員。日本医科大学医学教育センター特任教授(~2022年3月)。復興庁心の健康サポート事業統括責任者(~2014年)。被災地調査論文で2016年日本ストレス学会賞受賞。日本生活習慣病予防協会理事。日本ポジティブサイコロジー医学会理事。医学生時代父親の病気のため歌手活動で生活費を捻出しテレビドラマの主題歌など歌う。医師となり中止していたジャズライブを再開。

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