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強豪私学から公立への編入を選択した高校球児。“引退待ち”で終わるよりも新たな場所へ

上原伸一ノンフィクションライター
編入先の川越初雁高で練習に打ち込む早瀬蒼将選手(写真提供 川越初雁高野球部)

練習会での快打連発で進路を変更

高いレベルで甲子園を目指す中学選手は、年内、12月までには進路が決まると言われる。3年生ではない。有望視される2年生である。情報が多くなっている中、強豪校のアプローチが早くなっているのだ。高校野球のスカウトは数年後の「伸びしろ」も加味した上で、勧誘するのだろう。

とはいえ、14歳はまだまだ成長期真っ盛り。2、3年後の姿をイメージするのはなかなか難しい。もしかしたらある意味、プロ野球のスカウト以上の「目」が求められるかもしれない。

埼玉・川越初雁高の早瀬蒼将(そうすけ、2年)も、中学2年時に県外の私学から声がかかった1人だ。中学硬式の坂戸ボーイズの中軸打者。当時から身長178センチ、体重は90キロ近くと堂々たる体躯を誇り、左打席から快打を飛ばしていた。

中学時代の早瀬蒼将。2年時から強豪校から声がかかる実力派バッターだった(写真提供 早瀬弘一氏)
中学時代の早瀬蒼将。2年時から強豪校から声がかかる実力派バッターだった(写真提供 早瀬弘一氏)

この時は決断に至らず、計5校から声がかかった3年時に行き先を絞った。最終的にはコンスタントにベスト8以上に進出している県内の公立校に定め、先方からも強く望まれていたことから、その高校に行くのがほぼ決まっていた。

そんな中、接触してきた私学があった。仮にA高としておく。過去に甲子園出場経験もあるA高は、蒼将の父・早瀬弘一(以下、早瀬)の母校でもあった。すでに進路を確定していたため、早瀬は断りを入れたが、その後に「練習会だけでも」と連絡を受け、参加することに。早瀬はA高野球部のOB。断り切れないところもあった。

気乗りしない形で参加した練習会。ここで蒼将は長打を連発する。打球は次々にきれいな放物線を描いた。

自分の打撃に手応えを感じたのだろう。帰りの車の中、蒼将は父にこう尋ねた。

「俺、(行くと決めていた)公立校に進まないといけないのかな」

腕に覚えがある選手が集まる強い私学で勝負したい。すでに気持ちはA高に傾いていた。

結局、野球推薦でA高に入学する。チームからは嘱望されていた。入部後は、蒼将のポテンシャルに惚れた外部コーチが、特に目をかけてくれた。

「君なら高校通算50本以上は打てるよ。そういうバッターに育てるから」

こんな言葉をかけられて嬉しくない15歳はいない。ましてや父も在籍していた強豪私学のコーチからである。有頂天になったとしても無理はない。

だが、早瀬はコーチと同じようには見ていなかった。

「息子は体つきからするとスラッガータイプですが、実際はそうではありません。中学時代からアベレージヒッターでした。実は中学では、ホームランを打ってません。チームの方針もあり、反対方向へ逆らわずに打つバッティングをしていたんです」

編入は決して後ろ向きの選択ではないことを伝えたいと取材に応じてくれた早瀬弘一氏(筆者撮影)
編入は決して後ろ向きの選択ではないことを伝えたいと取材に応じてくれた早瀬弘一氏(筆者撮影)

間接的に耳に届いたショッキングな言葉

風向きが変わったのは、秋の1年生大会が終わった頃だ。蒼将はなかなか外部コーチの期待通りには育っていなかった。すると、それまで熱かった指導も、そうではなくなっていく。

ショッキングなことを同期の部員から告げられたのがこの頃だ。

「(外部コーチの)〇〇さんが言ってたよ。『早瀬はもう引退待ちだな』って」

もう引退待ち…これは高校野球の選手として活躍する可能性はないことを意味する。信頼していた「大人」が陰で発したまさかの本音。蒼将は目の前が一気に真っ暗になった。

もし外部コーチから直接、「お前、このままだと引退待ちだぞ」と伝えられたとしたら、奮起を促す言葉として受け取っただろう。直接言われたのなら、そこに「愛」も感じ取ったはずだ。

おそらく、外部コーチは何気なく漏らしたのだろう。だが、間接的に聞く、信じている人からの、耳を疑う言葉ほど、多感な高校生にとって残酷なものはない。

こういう例は他にも聞く。ある野球留学した球児は、監督からの「期待しているぞ」という言葉を励みにしていたが、同期から「監督があいつはもうダメだって言ってたよ」と聞かされてしまう。監督を信じられなくなったその球児は地元に戻り、定時制に編入。軟式で野球をした。

蒼将はすっかりモチベーションを失ってしまった。それでも可能性がある限りと、レギュラークラス以外はウエートルームや屋上で、という環境の中でも練習を続けていたが、年明けにさらなる追い打ちが待っていた。チーム内の紅白戦で、1打席しか与えられなかったのだ。

引退待ちは、外部コーチだけでなく、監督の評価でもあったのか…。

辛うじて心を支えていたものが、これでポッキリと音を立てて折れてしまった。

「体を活かしてアメリカンフットボールに転向したらどうか?」

たまたま学校に来ていた大学のアメフト関係者から声をかけられたのもこの頃だ。蒼将はもはや野球が嫌いになっていた。大好きだった野球が…。

退学した学校が編入に尽力してくれた

こうした状況の中で浮かび上がってきたのが「編入」という道だった。蒼将のモチベーションが下がった1年秋頃から、早瀬はその道を探っていた。

「もともと編入に対してネガティブなイメージはなかったんです。もちろん、我慢して続けるという選択肢もありました。でも、落ちた気持ちでただ高校野球を続けても、将来のプラスにはならないのでは、と。ならば編入先で“野球が好き”という思いを取り戻してほしい。まずはそこからだと考えていました」

早瀬は現在も自分でチームを持ち、楽しみながらも真剣に軟式野球でプレーしている。息子には嫌いなままで野球を終えてほしくなかった。

早瀬親子の背中を押してくれる存在もあった。A高の野球部が合わず、蒼将に先んじてある通信制の学校に編入した同期だ。その同期は編入先で生まれ変わったようなプレーをしていたのだ。

しかしながら、野球も続けるという前提で編入先を見つけるのはなかなか至難の業だった。ある公立高校からは「学校の本分は勉強。野球をするための編入は…」と苦言を呈された。

編入先は私学ではなく公立で、とは決めたものの、行き先が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。そんな中、編入先探しに尽力してくれたのが、蒼将を引き留めていたA高の監督と、校長だった。こういうケースはレアだろう。在籍していた野球部との関係がこじれたまま、退部、退学に至るケースがほとんどだからだ。

「A高の監督さんと、校長先生には感謝しかありません。今も気にしてもらっています」と早瀬は話す。

勧められたのは、川越初雁高だった。川越初雁高の野球部は、過去にも強豪私学からの編入生を受け入れたことがあった。

蒼将は編入試験に合格し、6月から川越初雁高の生徒になった。新たな居場所となった野球部は、部員数がA高の5分の1程度なら、今年に関しては春・夏・秋を通じて公式戦未勝利とレベルもA高とは異なる。それでも吉田健治監督と齋藤秀彦部長のもと、情熱を持って真摯に野球と向き合っている。自校のグラウンドは、両翼95メートル、中堅120メートルを確保でき、練習環境にも恵まれている。

新天地で花開いたポテンシャル

部員たちは蒼将を快く受け入れてくれた。人見知りしない性格の蒼将も新天地にすぐに馴染んだ。秋からは一塁のレギュラーに。練習試合のほとんどで四番か五番を打ち、通算で4割を超す打率を残した。持ち味である逆らわない打撃はそのままながら、長打も増え、ホームランも2本記録した。

その活躍は大学野球の関係者も知ることになり、ある大学の監督が蒼将の打撃を見に訪れた。川越初雁高の野球部にとっては極めて稀なことだという。引退待ちだった選手が完全にその評価を覆したのだ。

秋の練習試合では通算で4割を超えるアベレージを記録。大学の監督も視察に訪れた(写真提供 早瀬弘一氏)
秋の練習試合では通算で4割を超えるアベレージを記録。大学の監督も視察に訪れた(写真提供 早瀬弘一氏)

ポテンシャルを発揮した裏には、川越初雁高での豊富な練習量と実戦の積み重ねがあった。

「現チームの部員は15人しかいないので、グラウンドで目一杯、へとへとになるまで、練習をやらせてもらっています。またグラウンドがあるので、毎週土日はホームで練習試合が組まれます。実戦経験を多く積めたのは大きかったですね」(早瀬)

体もかなり絞れたようだが、何よりも変わったのが、表情だ。生き生きとした顔になった。いや、なったのではなく、中学時代の表情に戻ったと言えようか。野球が好き、という気持ちを取り戻していた。

「いろいろな考え方がありますが、現状で上手くいってないのなら、編入は、セカンドトライは、決して後ろ向きの選択肢ではないと思います」

早瀬はきっぱりとした口調で語る。

一方で、蒼将が入ったことで、レギュラーからはみ出た選手もいる。「自分だけ良ければの姿勢では、編入は上手くいかない。そういうことも忘れてはいけません」

もともとA高の外部コーチを見返したい、という感情はなかった。“引退待ち”という言葉のおかげで今がある、と思えるよう、そのために川越初雁高に編入した。

来夏の大会が、蒼将にとっては最初で最後の公式戦の場になる(日本高校野球連盟の規定では、転校後1年間は公式戦に出場できない)。打席では送り出してくれたA高と、受け入れてくれた川越初雁高への感謝の思いを込めてバットを振るつもりだ。

将来は指導者になりたいと考えている。順風満帆ではなかったからこそできた高校時代の経験。それは指導者としての大きな支えになるに違いない。

文中敬称略。

新天地では持ち前の笑顔と野球が好きという思いを取り戻した(写真提供 早瀬弘一氏) 
新天地では持ち前の笑顔と野球が好きという思いを取り戻した(写真提供 早瀬弘一氏) 

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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