朝ドラ『カムカムエヴリバディ』(NHK)の「るい」編もいよいよクライマックスを迎えた。

この「るい」編ではジャズが重要なモチーフになっている。何しろ深津絵里演じる2代目ヒロイン・るいの名前の由来はジャズミュージシャンの「サッチモ」ことルイ・アームストロング。その夫となるジャズトランペッターの「ジョー」こと大月錠一郎(オダギリジョー)は彼女のことを当初「サッチモちゃん」と呼んでいた。そして2人共通の特別な曲はルイ・アームストロングの「On the Sunny Side of the Street」だ。

では当時の日本でジャズやジャズミュージシャンは、どのような境遇にあったのだろうか。

拾い

ジョーが初めて登場するのは「安子」編の終盤。

柳沢定一(世良公則)が営むジャズが流れる喫茶店「Dippermouth Blues」を覗き、やがて進駐軍のパーティに潜り込む戦災孤児の少年として登場する(この段階では正体は明かされていないが)。

その前のシーンで、店主の柳沢が街角で「トロンボーン、おらんか?」とバンドマンを探し「そこのトラック乗れ」と言っている場面がある。安子(上白石萌音)には「進駐軍クラブで演奏するバンドマンを斡旋している」と説明をしている(28話)。

これは俗に「拾い」と呼ばれる仕事だ。

たとえば東京では、東京駅や新宿駅に毎日のようにバンドマンたちが集まり、拾われていくのだ。拾われていく側には、のちに渡辺プロダクションを創業するバンドマン時代の渡邊晋らもいた。

自身も新宿駅南口に通っていたムッシュかまやつはこのように回想している。

新宿の南口にあった小荷物預かり所に楽器を預けておき、夕方四時とか五時に新宿駅南口に行くと、兵器や弾丸を運ぶ米軍のトラック、ウェポン・キャリアがやって来る。そこに手配師がいて、集まっている連中に声をかけるのだ。

「今日は上瀬谷のオフィサーズ・クラブでカントリーやるぞ。ヴァイオリン弾けるヤツいるか」

「きょうは厚木だ、ギターはいるか、ベースは? ドラムは?」  

そういいながら、一人ひとり拾われていき、そこで初めて会った連中と、ウェポン・キャリアに乗せられて、キャンプや、わけのわからない米兵専用の酒場に連れて行かれ、演奏して帰って来る。そういう、ちょっと恐い“拾いの仕事”をずいぶんやった。カンペキに日雇い労働者である。(ムッシュかまやつ:著『ムッシュ!』)

「拾い」を行う業者はやがて「芸能社」を名乗るようになる。これが戦後の芸能プロダクションの源流のひとつだ。新たな市場が生まれれば新たな仕事が生まれるのは自然の摂理。ここに「小荷物預かり所」と書かれているように、バンドマンが「拾われる」までの間、楽器を保管する楽器の「一時預かり所」も生まれた。

よく知られているように、戦後、占領下の日本のバンドマンの主な活動場所は進駐軍施設だった。

ジャズコンブーム

ジャズが日本に“伝来”したのは1920年頃だと言われている。30年代にはダンスホールなどでダンスミュージックとして流行するが、30年代後半になると風紀上の理由によりダンスホールに対する規制が厳しくなり、40年10月末には、ダンスホールはすべて閉鎖となった。

1941年に太平洋戦争が勃発し、戦況が厳しくなるとやがて「敵性音楽」として規制され始め、1944年には完全に禁止となった。

だが、終戦後、真っ先にジャズは“解禁”される。それは日本人向けというよりはむしろ進駐軍向けのものだった。

1945年10月2日にGHQが発令した「調達要求の物資や役務の範囲」についての覚え書で、「特殊慰安(音楽・演劇・相撲など)」として芸能提供が掲上され、進駐軍施設に出演する芸能人たちの出演料はすべて日本政府が賄うことに定められた。

東京・横浜だけでも83ヶ所ものキャンプがあり、そこには、軍人の階級によってOC(将校クラブ)、NCO(下士官クラブ)、EM(兵員クラブ)といった飲食と芸能ショーを提供するクラブが多数存在していたため、バンドの需要が膨れ上がっていた。しかも米軍たちはいくらバンドを呼んでも自分たちの懐が痛むわけではない。そのため待遇も良かった。

当初は、渡辺弘を始めとする戦前からのジャズメン、いわゆる「戦前派」と、原信夫のような「軍楽隊出身者」たちがジャズに転身し、その需要に応えていたが、それだけでは供給が追いつかない。そこで渡邊晋のような学生アマチュアバンドマンたちも高待遇で仕事にありつけたのだ。中には楽器すら弾けない“立ちん棒”などと呼ばれる者も数合わせのため連れて行かれることもあったという。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると日本には「特需」がもたらされ、好景気にわいた。さらに1952年、日本が独立を果たすと、有楽町のよみうりホールの「スイングコンサート」を皮切りに日本人向けのジャズ・コンサートが開かれるようになり「ジャズコンブーム」が到来した。

つまり、ジャズバンドの主な活動が、独立し縮小した米軍向けから日本人向けに変わって行ったのだ。

ちなみに日本のジャズブームを決定づけたのは、1953年にノーマン・グランツ率いる JATP、さらには、「るい」の名前の由来であるルイ・アームストロングが相次いで来日を果たしたことだった。

スターを生むハコとしてのジャズ喫茶

るいが大阪に移り住んだ年は、明確には描かれていないが、流れている音楽や映画のポスターなどから、おそらく1960年頃だと思われる。

50年代前半に興ったジャズブームは、実は50年代半ば以降、急速に下火になった。代わりに到来したのは1958年の「第1回・日劇ウエスタン・カーニバル」を契機に興った「ロカビリーブーム」だ。山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、坂本九らが人気となった。

劇中、ジョーやトミー北沢(早乙女太一)が活動の拠点にしていたのは木暮洋輔(近藤芳正)が営むジャズ喫茶「Night and Day」だ。ここで人によっては違和感を覚えるかもしれない。

いま、日本でジャズ喫茶といえば、「ジャズを静かに聴く店」というのが一般的なイメージだからだ。大きな物音はもちろん喋ることも許されないような印象がある。

その源流は1920年代の「音楽喫茶」に遡る。やがて1929年、日本初のジャズ喫茶といわれる本郷赤門前に「ブラックバード」が誕生する。最先端の音響装置でジャズのレコードを聴かせる店だった。現在のジャズ喫茶のイメージに近い。同じ年に新橋「デュエット」が開店し、その後も多くのジャズ喫茶が誕生した。

こうしたジャズ喫茶が脈々と続いていく中で、1950年代、同じ「ジャズ喫茶」でもまったく違う趣向の「ジャズ喫茶」が生まれる。

それがジャズブームの真っ只中、1953年9月に開業した銀座「テネシー」だ。

レコードを聴かせるこれまでのジャズ喫茶とは大きく逸脱し、バンドの生演奏を観ることができるのが大きな特徴だった。ジャズ・コンサートでしか聴くことができなかったジャズの生演奏をコーヒー1杯の値段で聴くことができるテネシーは人気を博し、同様の形態のジャズ喫茶が次々と開店していったのだ。もちろん「ジャズ」喫茶と銘打っているが、ロカビリーブーム前後には、ロカビリーバンドたちも出演した(ジャズ喫茶でのロカビリアン人気の盛り上がりが、前述の「日劇ウエスタン・カーニバル」開催につながった)。

安価で若者でも通うことができたジャズ喫茶は、本格的なテレビ時代が到来するまで、「スター」を生む場所だったのだ。

ちなみにジョーをスカウトする「ササプロ」の社長・笹川光臣を演じた佐川満男もまたジャズ喫茶出身。やはりバンドマン出身でのちにホリプロダクションを興す堀威夫からスカウトを受け、佐川ミツオ名義でヒット曲を連発する歌手となったというキャリアを考えると気の利いたキャスティングだ。

この素晴らしき世界

結婚したるいとジョーが京都に引っ越したのは、ラジオで磯村吟(浜村淳)が「このところ日本ではビートルズ人気やロカビリー人気に押され気味のジャズ」(59話)と言っていたことから推測して、おそらく1964~65年頃だろう。

60年代前半にはロカビリーブームも下火になり、やがて到来したのはエレキブーム。そのさなかにザ・ビートルズの人気が日本にも伝わってくる。そして1966年6月にビートルズが来日。日本中に大きな衝撃を与え、これが引き金になり、ザ・スパイダースやザ・タイガースなどの「グループサウンズ(GS)ブーム」に突入していくのだ。

一方、ジャズも底力を見せる。その筆頭がやはりルイ・アームストロングだ。彼はこの頃「ビートルズを首位から蹴落とした男」というキャッチフレーズを好んで使っていたという(「uDiscover」2016年5月9日)。アメリカでビートルズ旋風が巻き起こった1964年、14週連続全米アルバムヒットチャート1位だったビートルズから首位の座を奪ったのがルイ・アームストロングの「Hello Dolly!」だった。

そして日本でGSブームが吹き荒れた1967年、彼は世界的大ヒットとなる名曲「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」を生んだのだ。

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