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「家族主義」をめぐる混乱を解きほぐす

筒井淳也立命館大学産業社会学部教授
当イメージは筒井の個人ニュースサイトのタイトル画像と同じものです。

「家族主義」という言葉があらためてネット上で注目を集めている。

しかしそもそも家族主義とは何なのだろうか? 政治においてどういう意味を用いうるのだろうか? 実は家族主義というのは、きちんと概念を解きほぐしておかないと混乱をまねきかねない、かなり面倒な概念なのである。

家族政策の文脈での「家族主義」

まず政策、特に家族政策の文脈では、家族主義という言葉は、ほぼ真逆の2つの意味になりうる。

ひとつは、「家族のことは家族でしっかりとやるべきで、政府が支援をするものではない」という考え方である。日本で使われている家族主義の概念はこちらに近いし、海外でもこの用法は普通にみられる。

もうひとつは、「家族は大事だから、たいへんなこと、特にケア―育児や介護―については家族の負担を減らし、政府が公的に家族をしっかりと支援しましょう」という考え方である。これは一部のヨーロッパでみられる家族主義の概念である。

ドイツの社会政策・政治科学研究者、S.ライトナーの用語では、前者は「消極的(implicit)家族主義」、後者は「積極的(explicit)家族主義」とされている*。

*Leitner, Sigrid, 2003, "Varieties of Familialism: The caring function of the family in comparative perspective", European Societies, 5(4): 353-375.

「政府が公的に家族を支援するのが家族主義だ」という考え方(積極的家族主義)には、違和感を感じる人もいるだろう。日本において家族主義という言葉はこういった意味ではほぼ使われないし、海外でも特に保守派のあいだでは一般的であるとまではいえない。この違和感があるのは、「家族に対する公的な支援=家族からのケアの分離」だという考え方があるからだろう。

ただ、家族に対する公的な支援は、必ずしも家族からケアを切り離すものだとは限らない。というのは、「ケアを行う家族を支援する」という支援のあり方があるからだ。育児休業は典型的な例である。実際、公的家族支援は「ケアが必要な人への支援(により家族の負担を軽減する)」やり方と、「ケアをする家族を支援する(ことにより負担を軽減する)」やり方に分かれている。積極的家族主義はもちろん後者である。

それに、家族主義というからには家族を重視する=家族を大事にする、ということなので、家族を支援せずに家族生活を大変にするのではなく、家族を公的に支援して楽しく家族生活が送れるようにすることこそが家族主義だという考え方も、人口に膾炙しているとはいいにくいが、ある意味では自然に聞こえるだろう。

ここで、家族がケアをして政府がそれを支援しないパターン、ケアをする家族を政府が支援するパターンとは別に、ケアが必要な人が家族を介せずに直接支援を受けるパターンを考えることができる。保育や施設介護が典型的であろう。ケアが必要な人に直接公的支援(社会サービス)を届ける体制を拡充させる方向を、ライトナーの用語で「脱家族主義」と呼ぶ。

脱家族主義的政策が徹底されれば、それは確かに上記の2つの意味いずれにおいても「家族主義」的ではないといえるだろう。ただ、ここで気をつけるべきなのは、「家族がほんとうに大事ならば家族負担は軽減すべきだ」という考え方は、脱家族主義にもあてはまりうる、ということである。

以上、ケアの政策の文脈でまとめると、次のようになる。

  • 【消極的家族主義】家族が責任をもってケアをする。政府は金銭的にもサービスとしても支援しない。
  • 【積極的家族主義】家族がケアをするが、政府が支援をする。給付付きケア休業、家族手当(介護者への現金給付)など。
  • 【脱家族主義】家族のケアをあてにせず、主に政府が担当する。保育・施設介護などが代表的。

このように、「家族が大事→家族の負担を減らそう」という考え方からは、積極的家族主義(ケアする家族の支援)と脱家族主義(家族のケアからの解放)が引き出しうる。これに対して、「家族のことは家族でやるべき(負担は当然)」だという考え方からは、消極的家族主義が出てくる。

家族主義の概念が混乱しがちなのは、それが「家族負担を減らすべき」vs「家族が担当すべき」という考え方の対立軸になることもあるし、「家族がケアを直接に担当しない」vs「(公的支援ある、なしは別として)あくまで家族が担当」という考え方の対立軸になることもあるからだ(「負担」基準と「直接担当基準」)。このため、「家族が大事だから、家族のケア負担を軽減して家族本来の楽しさを追求しやすくしよう」という考え方から、脱家族主義にも帰結しうるのである。

個人的には、やはり(直接担当のある/なしではなく)負担を軸に考えたほうが良いので、積極的家族主義こそが家族主義だ、という考え方は避けたほうが良いのでは、という意見である。他方で、積極的家族主義型の支援(育児・介護休業がメイン)はあくまで家族の存在を前提としたものなので、これは家族主義なのだ、という考え方も十分に理解できる。

ある程度一般世間で使われるようになった概念というものは、そもそも意味を誰かが独占できるものではない。他方で、多義性を放置しておくと議論にネガティブな影響が生じることもある。かんじんなのは、家族主義という言葉を使う際、どういう意味合いで用いているのかについて最小限考察をしておくことであろう。

現状、多くの国の家族政策は「ミックス」(選択性)に収斂傾向

現在の経済先進国(アメリカ除く)の家族政策では、多かれ少なかれ積極的家族主義が優勢である。日本も同様だ。柔軟な育児・介護休業制度、児童手当もいちおうある。これと並行して、より「脱家族主義」的制度もある。保育、施設養護・介護は日本にも存在する。日本では1989年の「ゴールドプラン」によって介護関連施設の拡充が目標とされ、続く1990年代からは「エンゼルプラン」によって保育枠の拡大が目指されることになった。同時に1990年代から育児介護休業制度が発展した日本を含めて、家族がケアをするが政府がサポートする仕組みと、家族の手を離れてケアが行われる仕組みは多くの国で併存し、場合によっては選択できる。これがライトナーのいう「選択的(optional)」な体制である。

ただ、形式的には「選択できる」とはいっても、制度の利用のしやすさは国によってかなり違う。日本では育児や介護によって仕事キャリアが阻害されてしまう経験を多くの女性が持っており、その意味で「制度は選択制だが、実質は消極的家族主義に近い」ということになるだろう。このようになる最大の理由は、働き方が「主婦付き男性」をいまだに前提としていることが多い、という点にある。働き方をそのままに、形式的に制度だけ拡充するとこのようになる。

では、脱家族主義はどうなっているだろうか。これに最も近いのは北欧社会であろうが、実はそこでは脱家族主義が一定の行き詰まりを経験し、積極的家族主義へのシフトが生じてきた。最大の要因は財政難による福祉サービスの縮減だ。政府が直接にケアサービスを提供するよりも、家族員によるケアをサポートするほうが低コストなのだ。ただ、もちろん家族がケアできないようなケースについては脱家族主義的制度も多かれ少なかれ準備される。

北欧を含む高齢化した経済先進国では、「可能な場合には政府の支援に基づいた家族ケア、ケアできる家族がいないなら政府の直接サービス」という体制に、経路や程度の差はあれ、収斂してきている。

ただ、実態はより複雑だ。形式的には「脱家族主義」的であるといえる施設ケア(保育、施設介護)においても、保育士や介護施設職員はしばしば「あくまでケアの主体は家族だ」という考え方を持っていることが、社会学者の研究で示されている*。脱家族主義的プログラムを担う社会サービス提供者が、家族主義的規範をケアの受け手の家族に期待しており、場合によっては自分たちのケアの提供を「残余的」(他に選択肢がないから仕方なく提供している)と理解しているわけである。

*笹谷春美, 2005, 「高齢者介護をめぐる家族の位置」『家族社会学研究』16(2)、および松木洋人, 2013, 『子育て支援の社会学:社会化のジレンマと家族の変容』新泉社など。

このように、脱家族主義的プログラムでも積極的家族主義のプログラムでも、制度として存在しているかどうかだけではなく、利用のしやすさ、基本的な価値観などによって実質的に消極的家族主義に近づくことがある。少なくとも日本では、「支援制度はあるが実質的には消極的家族主義」、つまり家族のことは基本的に家族で、という考え方がまだ強いとみるべきであろう。

さまざまな文脈での家族主義

ライトナーの概念整理は家族政策の文脈でのものだったが、そこを少し離れると家族主義の概念は人や文脈によってもっと多様で、しばしば曖昧に使用されている。家族は実に様々な制度や価値観と絡み合っており、家族主義もそれに応じてさまざまな様相をみせるのである。

欧米では、多くの国で長い間政治に影響力があったキリスト教民主主義においてもそうだが、いわゆる「男性稼ぎ手+主婦モデル」を優遇することが家族主義だという考え方がある*。他方で日本では、2022年3月の参院憲法審査会で西田昌司参院議員が「日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義、家族と伝統を大事にすることだ」と発言したように、「伝統的な家父長制」の価値観を重視する意味で用いられることもある。

*G. A. Giuliani, 2021, "The family policy positions of conservative parties: A farewell to the male-breadwinner family model?" European Journal of Political Research, 61: 678–698 など。

教育勅語に言及するような意味での「家族主義」には、家父長制的な規範を、実態としての家族・世帯の枠を超えて組織や社会全体に浸透させたいという考え方も含まれる。この点は、キリスト教民主主義の家族主義の考え方と若干類似している*。

*補足しておくと、ヨーロッパのキリスト教民主主義は、工業化にともなう自由主義勢力と、それに対抗する社会(民主)主義勢力の拡大に対応して、保守的な価値(個人の自由の制限、コミュニティ・家族に軸を置く)を重視する勢力として、政党政治のみならず人々の生活のひとつの柱となった考え方を指す。

ただ、歴史的には「男性稼ぎ手+主婦」体制は、「家」単位の経済が優勢であった旧い体制が衰退したあとで、家経済(自営)に代わって雇用労働(会社勤め)が支配的になるなかで成立した新体制であり、社会学的には全く異なったレジームである。それでも、この2つを曖昧にして区別せずに「家族主義的」だと考える人もいる。

確かに、ケアの文脈では家単位体制でも男性稼ぎ手体制でも、ケアは家族(特に女性)が担うものであり、家族政策からすればたいてい消極的家族主義が対応する。ただ、家単位体制では子が成人後も親子関係が軸であるのに対して(直系家族制)、男性稼ぎ手+主婦体制(しばしば「近代家族」と言われる)では夫婦関係が軸になる(夫婦家族制)*。たとえば配偶者の選択では、家体制だと親が力を持つアレンジ婚が優勢になるが、近代家族体制では恋愛婚が優勢になる傾向がある。

*ただ、直系家族制でも夫婦家族制でも、男性優位な体制であればいずれも「家父長制的」であるという考え方も(学術界にも)ある。

「伝統的家父長制」を強調するような家族主義は、欧米社会には既にみられないだろう。男性稼ぎ手モデル(女性が無償でケアを行う)を重視する政策は、以前は欧米の保守派で強かったが、共働きが当たり前になった現在では共働きを前提とした積極的家族主義あるいは選択制にシフトしているといえる。

少し話を戻すと、「家父長制」的な意味での家族主義は、政治と(「保守的」な家族観を重視していると言われる)旧統一教会とのつながりが報道されるなか、ここ最近は頻繁に登場してきているようだ。この意味での家族主義に親和性のある考え方としては、選択的夫婦別姓の否定と性的多様性の抑圧があるだろう。

ただ、こういった価値観のつながりはかなりの「緩さ」を含みこんだものだ。たとえば旧統一教会が創設された韓国では、基本的に姓制度は<強制的>夫婦別姓、つまり父から与えられた姓を一生使い続ける。他方で日本の「保守派」は、夫婦同姓こそが「伝統的」であると考えている。このどちらも、ある意味では家族主義である。

かように家族主義をめぐる主張や価値観は錯綜気味であるが、その理由の一つは、述べてきたように、「保守派」の一部が家・親子関係を重視する「家父長制」的な制度・価値観と、特定の夫婦関係(男性稼ぎ手+主婦)を軸とした制度・価値観という、全く異なる2つのものをしばしば混同することにあるといえるだろう。

立ち止まって考える

当たり前のことだが、「特定の団体(宗教その他)からの影響を受けた考え方だから」というのは、政治力学の文脈では意味を持つが*、その考え方・価値観の妥当性そのもの、あるいはそれが社会にとってどういう意味を持つのかの判断基準にはならない。

*たとえば保守派団体からの圧力やそれへの配慮のために、国民の多くが受け入れるはずの政策が導入されない、など。

他方で、家族主義という言葉を使って何らかの立場を評価したり、政策の判断をしたりする際には、ここで書いてきたような「腑分け」を意識しながら行うべきだろう。さもないと、議論がわけのわからない方向に行ってしまい、混乱の中で結局何も進まない、ということになりかねない。

立命館大学産業社会学部教授

家族社会学、計量社会学、女性労働研究。1970年福岡県生まれ。一橋大学社会学部、同大学院社会学研究科、博士(社会学)。著書に『仕事と家族』(中公新書、2015年)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書、2016年)、『数字のセンスを磨く』(光文社新書、2023)など。共著・編著に『社会学入門』(前田泰樹と共著、有斐閣、2017年)、『社会学はどこから来てどこへいくのか』(岸政彦、北田暁大、稲葉振一郎と共著、有斐閣、2018年)、『Stataで計量経済学入門』(ミネルヴァ書房、2011年)など。

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