「塾歴社会」を直視しなければ、日本の教育問題は理解できない

育児・教育ジャーナリストおおたとしまさ氏の『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(幻冬舎新書)を読んだ。硬い頭に釘を打ち込まれたような、腐った魂を蹴り上げられたような衝撃をうけ、いてもたってもいられず、キーボードを叩いている自分がいる。「塾歴」は、2016年度の教育をめぐる論争のキーワードであり、この本は炎の導火線だと確信した。

本書は、教育社会学で言う「タテの学歴」である「最終学歴(つまり、高卒か大卒か院卒かなど)」、「ヨコの学歴」である「学校名(東大卒、早稲田卒など)」とは違う、「塾歴」なる概念を提示している。開成、筑駒、灘、麻布などの名門進学校における受験で「サピックス小学部」が圧倒的なシェアを誇っていること(例えば、筑駒においては7割強がサピックス出身)、さらには東大理3の合格者の6割強を「鉄緑会」(名門校の合格者だけに入学資格がある塾)が輩出している現実は「塾歴社会」という言葉は単なる煽りではないことを示している。サピックスや鉄緑会の出身者や元講師への取材をもとに、徹底解剖し、その光と闇を紹介したのがこの本である。

日本には約5万の塾があると言われている。文中で登場する2009年に東大家庭教師友の会が実施したアンケート結果によると、東大生の約85%、早稲田・慶應・一橋を含む主要難関校の約95%が塾通いを経験しているという。日本の学力(少なくとも、ヨコの学歴における)のトップ層の9割前後が塾に通っていることになる。「学問に王道なし」という言葉があるが、名門校受験においてはサピックス→鉄緑会という王道のようなものがあるのではないかと本書が指摘した内容は目から鱗が落ちるものである。サピックスに3年通うと約240万円かかる、「鉄緑廃人」と呼ばれるような生気を失ったような生徒もいるなどという話は苦笑せざるを得ないが、そこに描かれているのは受験競争、学歴社会、塾歴社会に親子で立ち向かうという日本の家庭の姿だったりもする。

昨年は内田良氏が『教育という病』(光文社新書)とこのYahoo!個人を発火点に、「組み体操問題」「部活動問題」など義務教育の現場で起きている事件を社会問題として問題提起した。中室牧子氏の『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は教育の効果、意義について経済学的に分析し問題提起し話題となった。ベスト・セラーとなった上、全国紙の書評コーナーでも高い評価を得た。この2冊が問題提起したテーマの他にも昨年、教育をめぐって話題となったイシューは枚挙に暇がないが、本書もまた論争、社会問題化の発火点、炎の導火線となりそうである。2016年の教育をめぐる論争はこの本から始まる。

SMAP解散騒動や、ベッキー&ゲス川谷問題ほどではないものの、週刊誌が飛びつきそうな内容が含まれている本でもある。それは冗談として「学歴」や「教育」に関する問題は、いつもネット上では炎上や、自分語り、科学的根拠のない自らの教育に関する持論の展開を誘発するものである。このエントリーに対しても、別に煽ったタイトル名ではないのに、この書名を紹介しているという点だけで過剰に反応する人がいることだろう。

私は、この手の問題は可能な限り、常識と感情をいったん手放し、簡単に答を出さずに、事実を淡々と追うことが大事だと思っている。実際、本書のつくりもそうなっている。おおたとしまさ氏の本は簡単には答を出さない。ここに物足りなさを感じるかもしれないが、知識・教養のために本書を読む者にも、子供の教育に悩んでいる者に対してヒントを提示する意味でも、このつくり方は意義があると捉えている。

この「塾」や「予備校」という話、さらには「名門校」「難関大学」「受験競争」「学歴社会」なるキーワードを聞くだけで毛嫌いする人もいることだろう。それこそ、塾講師を地獄の軍団、殺人機械だと思っている人もいるかもしれない。私ももともとはどちらかというとそういうタイプの人間だ。しかし、好き嫌いは別として、このような「塾歴社会」が成立してしまっているという事実は直視せざるを得ないのではないだろうか。つまり、10代の教育(と呼ぶことが嫌いな人、認めない人もいることだろう)において、塾が存在感、影響力を持ってしまっているということである。

「受験勉強は本質的ではない」「塾で疲弊するのはいかがなものか」という声がありつつも(実際、本書でもサピックス、鉄緑会で消耗している人たちの姿も出てくるが)、そこに期待する親子がいるし、名門校に進学しただけでは難関大学合格という結果にコミットできない現実も存在する。いくら理想の教育像を掲げたところで、名門一貫校に、難関大学に進学したいという人たちはいるわけで。そこで塾が担っている役割は認めざるを得ないだろう。やや極端な言い方をするならば、名門一貫校が「理想の教育」なるものを行っているとしたならば、それは塾という存在との協業によって成り立っているという見方もできる。同じ知的レベル、似たような家庭環境の子供たちが集まり、教えるのが上手い先生のもとで切磋琢磨することを楽しんでしまっている10代がいるというのもまた事実である(本書に掲載された鉄緑会出身者の座談会を読むとよくわかる)。

大学教員として、「教える」ということに関わっている者としては、大学において名物教授と言われている人たちの指導法はもちろんだが、塾や予備校の講師たちの教え方はベンチマークせざるを得ないと思っている。いくら学問の本質を声高に叫ぼうとも、教え子たちの学びたい意欲に火をつけ、学習効果を高めなくてはその理想は水泡に帰すからである。好き嫌いは別として、一定の評価を得ている教え方や講師については、なぜその結果を出しているのかを研究する必要がある。結局は自分のベストの教え方を模索せざるを得ないのだが。

もっとも教育の効果、成果なるものは短期・中期・長期でみなくてはならない。志望校への合格というのはその一部でしかない。この「塾歴社会」が硝子の少年・少女たちを生み出していないかという批判もあることだろう。

「塾歴社会」は教育に関わる者、関心がある者が直視せざるを得ないキーワードなのだ。そこには日本の教育の理想と矛盾が混在している。本書はその議論の起点となることだろう。

最後に、少しだけ版元の幻冬舎をこの場を借りて批判する。この本の800円+税は安すぎる。また、同時期に高知に移住した若者の本などを出しているが、レーベル内の格差が明確になりそうで可哀想だ。いかがなものか。ゲスの極みである。出版界がどれだけ厳しいのかわかっているだろう。センテンススプリング社なみに強かに取り組みなさい。同社にいる同世代の超絶美人編集長に今度会ったら説教をすることにしよう。