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「監督が黒人なら奴よりサラリーを高くしてくれ」差別とも戦い続けた三冠王フランク・ロビンソン死去

豊浦彰太郎Baseball Writer
三冠王カブレラにトロフィーを渡す元三冠王ロビンソン(2012年)(写真:ロイター/アフロ)

フランク・ロビンソンが死去した。両リーグでのMVP受賞、三冠王獲得など輝かしいキャリアを誇るが、史上初の黒人監督でもあった彼の人生は人種差別との戦いでもあった。

輝かしい球歴と個人的な思い出

今朝、目を覚ますとフランク・ロビンソン死去の報が飛び込んできた。享年83歳。38本塁打での新人王、史上ただ1人の両リーグでのMVP受賞、三冠王獲得、そして黒人として初の監督就任など、メジャーの歴史を語る際に見落とすことのできない人物だった。

ちょっぴり自慢させていただくと、ぼくは彼の現役時代のプレーを生で観たことがある。それは1971年秋の日米野球で、小倉球場(現北九州球場)でのオリオールズ対巨人戦でのことだ。当時ぼくはまだ小学生2年生だったが、フランクと三塁手のブルックスの両ロビンソン(ともに後年殿堂入り)は観戦前からしっかり認識していた。ただしそれは、彼らの米国での素晴らしい実績を知っていたのではなく、当時「宇宙家族ロビンソン」というアメリカのSFテレビドラマが日本でも放送されていて、ぼくは熱心な視聴者の1人だったからだ。今では信じられないような話だが、その日米野球ではオリオールズの選手は背番号の下に黒のマジックで「ロビンソン」というふうにカタカナで名前を手書きしていた。

黒人としての十字架

ロビンソンの全盛期はアメリカでの公民権運動の最盛期と符合する。したがって、彼の人生は黒人差別との戦いでもあった。1965年のオフにレッズからオリオールズにトレードされボルティモアで住居を探さねばならなかった際に、「黒人だから」ということで何度も契約を断られたという。その4年前には最初のMVPに輝いていた彼はすでに名士であり、その知名度と経済力に相応しいエリアを新しい居住の地に選ぼうとしたのだが、そのような高級住宅地は白人に占められていたためだ。ちなみに、あのジャッキー・ロビンソンの伝記にも同様な経験談が語られている。ジャッキーの場合は何とか高級住宅地に居を構えたが、彼の子供達は黒人の同世代が全くいない環境(当然、人種差別も伴う)に苦しみ、精神的に不安定になってしまったという。

フランク・ロビンソンに話を戻そう。

彼は1975年にインディアンスでメジャー史上初の黒人監督になった。その際は、選手兼任だった。MLBでは日本とは異なり、名選手をそのまま監督に据えるケースは多くない。逆に言えば、黒人を監督に起用するには彼くらいの知名度が必要だった、ということだ。当然、反発も多かった。前年21勝のエース、ゲイロード・ペリー(通算314勝で殿堂入り)は、「黒人監督の下でプレーしなければならないのなら、せめてサラリーを1ドルでもやつより高くしてくれ」と不満をぶちまけた(その後、ペリーは放出された)。そんな時代だったのだ。

ロビンソンは、その後ジャイアンツ、オリオールズ、エクスポズ/ナショナルズでも監督を務めているが、全て低迷中の球団からのオファーだった。優勝に縁のなさそうな球団が、ファンを繋ぎ止めるためにせめて監督にスターを配置する必要があったのだ。

監督としての最後のお務めとなったエクスポズ(その後移転しナショナルズに)での就任の際、同球団はMLB機構の管理下にあった。当時(今もだが) MLBは、選手はともかく指導者ポストやフロント要職がマイノリティに開かれていないと批判を受けることが多かった。MLBによるロビンソンのエクスポズ監督起用(およびドミニカ出身のオマー・ミナーヤのGM起用)は、そんな批判に対する対策という側面もあったのだと思う。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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