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生誕100周年のジャッキー・ロビンソン、功績は偉大だが神格化され過ぎで弊害も

豊浦彰太郎Baseball Writer
2009年以降、4月15日には全選手が「42」を背負うが・・・(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

現地時間1月31日は、近代メジャーリーグの人種の壁を初めて乗り越えたジャッキー・ロビンソンの生誕100周年記念日だった。彼の功績に議論の余地はないが、やや神格化され過ぎでその弊害も否定できない。

意外にあっさりしたデビュー日の新聞報道

丁度100年前のこの日に、ジョージア州で元奴隷の孫として生まれたロビンソンは、1947年4月15日にブルックリン・ドジャースの一塁手としてデビュー。目覚ましい活躍を見せ、彼に続く黒人選手に道筋を付けた。その後メジャーリーグはラテン諸国からのタレント発掘にもやっきとなり、今や日本を始め世界中に広がった。全てはロビンソンから始まったのだ。

彼の生誕100周年に関する現地報道を漁っていると、興味深い記事を見つけた。共同通信が、ロビンソンのデビュー戦を報じる当時のメディアの記事の抜粋を掲載したのだ。

詳細は、原文をじっくり読んでいただくしかないが、ぼくの印象としては「ロビンソンについてはさらっと触れているだけ」だ。彼のデビューはMLBのみならずアメリカの歴史が動いた瞬間なのだが、各紙の報道はそれを事実として淡々と伝えるのみのケースが多く、試合展開や開幕時点でドジャースの監督レオ・ドローチャーが謹慎状態にあり指揮官不在での戦いであったこと、開幕戦ながら空席も目立ったことの方がより詳しく報じられている。

まあ、そうかもしれない。この日、20世紀以降では初めてアメリカ黒人選手が出場したのは事実だが、その時点ではその後の歴史を大きく動かすことに繋がるかどうかは不明だったからだ。ほんの数試合出場しただけで、ロビンソンが消えて行く可能性だってあったのだ。

もっとも、その意外に軽い扱いがその日のドジャースの本拠地エベッツ・フィールドの空気感を正しく反映しているかどうかは不明だ。事実を伝える報道も、何に比重を置くかは極めて主観的なものだからだ。

ロビンソン登場は問題の終焉ではなく戦いの始まり

しかし、このことははっきり言えると思う。現代人はジャッキー・ロビンソンのみを神格化し過ぎである。彼の背番号「42」の全球団での永久欠番化(1997年)、4月15日のMLB全体での「記念日」化(2004年)、その日の全選手の背番号「42」化(09年)など、少々やり過ぎの感がある。そして、そのことによる弊害も皆無ではない。

まず、同じ先駆者としての苦難を味わった他の黒人選手たちに注目が集まり難くなっていることが挙げられる。例えば、ラリー・ドビーがインディアンスでデビューしたのは、ロビンソンがカラーラインを破った日からわずか81日後の1947年7月5日のことだ。恐らく、彼に向けられた差別や攻撃、そして危険はロビンソンのそれとなんら差はなかったはずだ。ドビーは後に殿堂入りしているが、やはり現代人の認識の点ではロビンソンとの差は歴然だ。

また、ロビンソン「神格化」は、白人社会による免罪符となっているようにも思える。「彼のおかげで現在の人種的多様性がある」と、1947年4月15日を人種隔離の終焉日とし、MLBの人種問題を過去完了に錯覚させている点は否めないと思う。それどころか、彼の登場は今も続くマイノリティたちの戦いの始まりであったのだ。2017年の5月1日に、オリオールズのアダム・ジョーンズがボストンのフェンウェイパークで観客に人種的侮蔑行為を受けたことなどは記憶に新しい。

「盛られている?」引退エピソード

引退に関するエピソードも「盛られている」。ロビンソンは、1956年12月にドジャースからジャイアンツ(当時は同じニューヨークに本拠地を置いていた)にトレードを通告されると引退を表明したが、一般的にはこれは「ドジャース愛を貫いた」と認識されている。しかし、事実はそうではなかったようだ。

2015年のロビンソン・デーに『サンフランシスコ・クロニクル』の電子版に掲載された記事「ジャッキー・ロビンソンがジャイアンツを拒否した本当の理由」によると、彼はもともと引退を考えていたという。その理由はまずはビジネス的判断で、翌シーズンを38歳で迎える彼は、年齢的衰えとその後の生活の安定を考え実業界への転身を決意していたという。

また、その背景には、「ドジャース愛」どころか「ドジャースへの失望もあった」ようだ。その時点ではロビンソンのメジャーへの道を開いたドジャースオーナーのブランチ・リッキーはすでに去り、経営権はウォルター・オマリー一家に移っていた。そして彼らとの関係は必ずしも良好では無かったという。

引退後はビジネス界だけでなく、公民権運動にも積極的に参加。全米黒人地位向上委員会でも要職に就いた。

しかし、第2の人生は幸せいっぱいでもなかった。彼自身は糖尿病に苦しみ、ベトナム戦争で負傷した長男はその後薬物依存に苦しみ、24歳で交通事故により死亡した。ロビンソン自身も、その翌年に53歳の若さで心臓発作によりこの世を去った。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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