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40年前の今日、MLBを変えたフリーエージェント(FA)制度時代の幕が開いた

豊浦彰太郎Baseball Writer
グレインキは史上最高の年平均3442万ドルを手にするがこれもFA制の恩恵だ(写真:USA TODAY Sports/アフロ)

クリスマス・イヴがやってきた。日本では今日が12月24日だが、アメリカでは時差の関係で、この原稿を書いている時点ではまだ23日だ。12月23日とは、野球の歴史を語る上で忘れることができない重要な日だ。ちょうど40年前のこの日、現在のMLBの商業的発展とその過程でのストライキという大きな代償のきっかけとなるフリーエージエント(FA)制度が誕生したのだ。

1975年12月23日、ドジャースのアンディ・メッサースミスとエクスポズのデーブ・マクナリー両投手に対し、MLBと選手組合が指定する調停人のピーター・サイツは「球団の保有権は無効」として両選手は自由契約選手(FA)との判断を下した。

メッサースミスは、60年代後半から70年代にかけて活躍した右腕投手だ。比較的成績の波は大きかったが、20勝以上を2度(71年と74年)記録している。しかし、彼はその記録ではなく、FA制度導入のきっかけとなった点で、MLBの歴史に名を残した。

MLBでは19世紀より「保留条項(Reserve Clause)」が選手の自由な移籍を制限していた。未契約のまま次年度に突入しても球団は1年間選手を拘束できるというものだ。問題は1年経過後で、慣例として「その後も球団は保有権を維持し続ける」と解釈されていた。

ドジャース在籍の74年に2度目の20勝を挙げたメッサースミスは、当然のことながら契約更改で強気に出た。そして交渉をこじらせたのが、金額以上に彼が要望した(現在ではごく常識的な)「トレード拒否条項」だった。

両者合意を見ぬまま75年シーズンが開幕。ドジャースは未契約のメッサースミスに対し、前年度の80%のサラリーを暫定的に支払った。これは、当時の協定で定められた「25%以上の減額はNG」から算出されたレートだった。結局、彼はシーズンを未契約のまま終えた。この年は19勝だった。

これは、保留条項の1年経過後の有効性に対する挑戦だった。もちろん、これはメッサースミス単独の判断によるものではなく、66年に選手組合の専務理事に就任し、それまでの「御用組合」を「世界一強力な組合」に変貌させたマービン・ミラーのバックアップあってのものだった。

そして、冒頭記したようにサイツはメッサースミスをマクナリーとともに「自由契約選手である」との裁定を下したのだ(マクナリーはこのシーズン途中から事実上の引退状態だったが、彼も選手組合の戦略により閉幕まで未契約状態で過ごした。オーナー達は2人の共闘体制を崩そうと、マクナリーに敢えて巨額契約を提示し、「1年間無契約」を阻止しようとしたが、次世代の選手達のために彼はこれを拒否した)

オーナー達は連邦地裁、連邦控訴審に訴えたがサイツの裁定が支持された。結局、メッサースミスは当時としては破格の巨額契約(3年100万ドル)でブレーブスと契約した。

歴史を変えたサイツ裁定には、実は見落とされがちな重要なポイントがある。彼は、保留条項の有効性を否定したのではない、ということだ。

保留条項は、かつて何度も独占禁止法に抵触するのではないか?との議論の対象になるも、都度それを切り抜けてきた。サイツ裁定の3年前にも最高裁が合法とする判決を下している。民事の調停において、法的前例を覆すことはほぼない。同様に、民事調停の結果を不服として裁判に訴えても、そこで勝利できる可能性も皆無と言って良い。前例になるからだ。余談だが、2013年のあの薬物スキャンダル「バイオジェネシス事件」で最終的に調停人のフレデリック・ホロウィッツから1年間の出場停止処分を宣告されたアレックス・ロドリゲスが、法廷での徹底抗戦の構えを一時は見せながら、結局裁定を受け入れたのもそのためだ。

サイツ裁定で問われたのは、保留条項の合憲性や有効性そのものではなく、単に適用期間の解釈だった。保有権の延長が認められるのが1年のみと考えるか、その後も継続すると考えるか、なのだ。そして彼は「有効性は1年間のみ」との判断を下した。

ある意味では、これは当然だった。保留条項には「未契約の選手に対し、球団側は1年間契約を延長できる」としか書かれておらず、どこにも「その次の年も同様」とは記載されていないからだ。そして、サイツの判断はそれまでの裁判での保留条項の法的有効性の判決と全く矛盾しない。

サイツはその字句の解釈にフォーカスしただけだ。また、それが調停人の本来の役割だ。彼らの仕事は単に何が正しいかを判断するのみであり、その判断が与える影響を考慮すべきではないのだ。

しかし、オーナー側はそれに気付いていなかった。彼らは、「この制度無くしては球団経営が成り立たない」とか、「戦力バランスが崩れ興行的魅力が減じる」などとアピールした。そして、マスメディアを利用し自分たちの正当性を流布させようとした。それらは、世論に影響を与えることができたかもしれないが、本質的に調停人の判断いかんには無力だった。

その点ではオーナー側は愚かだったと言わざるを得なかったが、FA時代の幕開けによる競争状態は単にサラリーの高騰のみならず紆余曲折を経ながらも最終的にはMLBビジネスの拡大に繋がり、オーナー達の懐にも巨額の富をもたらした。

ちなみにサイツ裁定によりFAとなったメッサースミスは、ブレーブス移籍後は76年11勝、翌77年は5勝と期待には応えられず、78年はヤンキースに放出された。その後も復活することなく、79年限りで球界から姿を消した。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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