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東京五輪代表だった服部勇馬が1年半ぶりの国内マラソン。大阪マラソンで完全復活の期待

寺田辰朗陸上競技ライター
大阪マラソン前々日(2月24日)に行われた記者会見時の服部<筆者撮影>

「久しぶりですが自信を持ってスタートラインに立てます」(服部)

 大阪マラソン前々日(2月24日)会見の席上、服部勇馬(トヨタ自動車)はためらうことなく話した。

「タイムは自己記録(2時間07分27秒)を更新したいと思っています。オリンピック以降ちぐはぐな練習が続いてうまくいきませんでしたが、昨年11月から4カ月、このマラソンに向けて良い準備ができました。やりたかった練習がほぼ完璧にできて、国内大会は(東京五輪以来)久しぶりですが、自信を持ってスタートラインに立てます」

 服部のマラソン全成績は以下の通りだ。

 初マラソンと2回目の東京では終盤でペースダウンした。だが3回目のプラハから終盤まで走りきれるようになり、4回目の福岡国際では35km以降に圧倒的な強さを発揮して優勝した。そして19年MGC(マラソン・グランドチャンピオンシップ。東京五輪代表3枠のうち2人が決定)では中村匠吾(富士通)にこそ8秒差で敗れたが、大迫傑(Nike)に5秒差をつけて2位に。東京五輪代表入りを決めた。

 だが東京五輪マラソンは、真夏の東京開催を想定して準備してきたにもかかわらず、IOCの意向で札幌開催に変更された。さらに新型コロナの感染拡大で開催が1年延期になってしまった。服部の敗因は準備段階でアキレス腱が痛かったり、ヒザの調子が悪く十分な練習が積めなかったことだが、社会的な背景も日本人選手たちのストレスとなったのは事実だろう。

「やはり(開催予定だった)20年のところで行きたかったですね」と、トヨタ自動車の佐藤敏信総監督は話す。20年の服部は絶好調で、10000mで7月と9月に自己新を連発した。

 それが1年後の五輪本番では、MGCでは暑さを苦にしなかった服部が熱中症を起こしてしまった。練習不足が原因だが、心理的な要因もあったと佐藤総監督はおもんばかった。

「地元五輪の注目種目で日の丸を背負う。あの状況で戦った6人にしかわからない、特別なものがあったのだと思います。体調を戻すのにも時間がかかりましたが、心のダメージも大きかったと思います」

 11月の10000mで復調の兆しを見せたが、12月には故障をして、22年1月のニューイヤー駅伝は5区で区間14位と振るわなかった。立ち直れない日々が続いていた。

東京五輪の服部は73位。熱中症になり苦しいゴールとなった
東京五輪の服部は73位。熱中症になり苦しいゴールとなった写真:YUTAKA/アフロスポーツ

再起へのプロセス。昨年11月のきっかけとは?

 服部は東京五輪を走り終えた後に、佐藤総監督(当時監督)やトレーナーに「パリ五輪までもう一度見てください」とお願いした。オリンピックの借りはオリンピックで返したい。その思いを強く持った。

 その一方で、オリンピックが必ずしも応援される大会でないことは、東京五輪前の社会状況で明確にわかった。それ以前は考えもしなかったことが、スポーツ選手たちに突きつけられたのだ。服部も思い悩むことがあったという。

 それが原因と言い切れないが、服部の再起へ向けての練習は順調に進まなかった。昨年5月に、服部にとっては好印象のプラハ・マラソンで再起を期したが、2時間18分06秒と平凡なタイムに終わった。暑さもあったが、「3月末から4月にかけて故障をして、2~3週間練習が抜けてしまった」(佐藤総監督)ことが原因だった。

 プラハの前には、全日本実業団ハーフマラソン(2月)で1時間01分24秒と、まずまずの記録で走りきった。新たに取り入れた短距離のドリル(動きづくり)も、良い方向に作用していると感じられたのだが、負のサイクルは続いていた。

 7月のハーフマラソンで1時間2分台で走ったが、10月のハーフマラソンはまたも故障して欠場せざるを得なかった。12月に予定していたマラソン出場も見送ることにした。「ちぐはぐな練習」のサイクルから抜け出せない時間が流れていた。

 流れが変わったのは11月だった。佐藤総監督が「そろそろやらないとニューイヤー駅伝にも、大阪マラソンにも間に合わないぞ」と強めの口調で声をかけた。故障が治っても慎重になり過ぎていた雰囲気も服部にはあった。

 佐藤総監督は寮にある低酸素室で、バイクを漕ぐトレーニングを服部と一緒に行った。故障からの立ち上げ段階なので脚に大きな負荷はかけたくない。だが、心肺機能はしっかり追い込みたい時期である。

「心拍数をマックスで15分間3セットを行ったり、短い時間で行ったり、いくつかのパターンで行いました。トラックで400 mや1000m、3000mの距離の組み合わせでインターバルトレーニングをする感じです。標高2000~2200mの高さに酸素濃度を調整してやりました」

 佐藤総監督が選手と一緒に、低酸素室でそこまでの練習を行うのは初めてのことだった。服部も意気に感じた部分があったようだ。

 12月は順調にトレーニングを消化し、元旦のニューイヤー駅伝では7区で区間賞。3人を抜いてチームの3位に貢献した。

 駅伝後に2日間ほど疲れが出て練習に影響したが、1月には徳之島と奄美大島で、2月にも奄美大島で合宿。

「40km走や42km走など、距離を求める練習もしっかりできました」と佐藤総監督。服部も会見で「(優勝した)福岡の前と比べると距離の練習が1~2回少ないのですが、大会前の1カ月半から2カ月は、福岡と同じトレーニングができています」と話した。

 服部は大迫や新谷仁美(積水化学)のようにスピードからではなく、距離からマラソンにアプローチを行い、「マラソンをジョギングの感覚で走る」ような状態にもっていく。まだ100%ではないかもしれないが、今の服部は強くなった頃と同じベースができている。

服部が得意とする35km以降の勝負に注目

 大阪マラソンが、エリート選手の大会として21年まで行われていたびわ湖マラソン合体し、大規模マラソンになって2年目。前回は30km通過が1時間30分35秒と、5km換算15分05秒でレースは進んだ。天候次第ではあるが、今年は15分00秒ペースが予想されている。

 ペースメーカーが外れるのは、これも予想だが30km地点。その後を各選手がどう走るか。30km手前にも上り下りがあり、30~35kmの間もゆるやかな起伏が続く。昨年は30kmまでの5kmで15分19秒かかったが、35kmまでは15分03秒にペースが上がった。服部は30km以降の走りを質問されると、「アップダウンもありますし、自分からは動かさないと思います」と答えた。

「外国人選手に2時間4分台の選手もいますし、(早い段階で)主導権を握って勝つのは難しいと思います。外国人選手や周りの選手たちが作るレースに、乗っかっていく走りをしたい。外国人選手に勝負するのは35km以降になると思います。レースを見極めながら、42.195kmで今の力を出し切る走りをしたいですね」

 服部は前述のように、今回のトレーニングは優勝した福岡と同じくらいだと感じている。それでも「MGC前と比べると正直、そこまでの力はないかな。この後の半年で上げていくイメージです」と話している。最善のトレーニングまでは達していない感触なのだろう。

大阪マラソン前々日記者会見(2月24日)でのフォトセッション。右から服部、東京五輪補欠だった大塚祥平(九電工)、参加選手中日本人最高タイムを持つ定方俊樹(三菱重工)<筆者撮影>
大阪マラソン前々日記者会見(2月24日)でのフォトセッション。右から服部、東京五輪補欠だった大塚祥平(九電工)、参加選手中日本人最高タイムを持つ定方俊樹(三菱重工)<筆者撮影>

 だが、福岡で優勝したときは40kmまでの5kmを14分40秒で走破し、35kmまで並走していたイエマネ・ツェガエ(エチオピア)を54秒も引き離した。少し力が落ちていた時期なのかもしれないが、ツェガエは2時間04分48秒(12年)の自己記録を持ち、15年北京世界陸上では銀メダルを獲得した選手である。

 服部が福岡に優勝した18年当時、2時間7分台は歴代上位に入る好記録だったが、今の日本男子マラソンは当たり前のように2時間7分台が出ている。厚底シューズの影響もあるが、選手もそのレベルで走って当然という心理状況になっているからだ。

 まだ万全ではないかもしれないが、今の服部が2時間7分台前半、もしくは2時間6分台で走っても何の不思議もない。「順位はあまり気にしてません」と話したが、3年半前のMGCのように終盤まで、激しい優勝争いに加わるシーンが見られそうだ。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

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