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名古屋ウィメンズマラソン注目選手 伊藤舞 4年ぶりのマラソンは原点に戻った伊藤として挑戦するレースに

寺田辰朗陸上競技ライター
2015年北京世界陸上で7位に入賞した伊藤舞(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

ハーフで失敗し、名古屋は初めて試す調整法で挑戦

 伊藤舞(大塚製薬・36)が名古屋に戻ってくる。2010年に初マラソンを走り、12年と15年には自己記録を出した大会だ。

 だが名古屋への調整試合として出場した先月14日の全日本実業団ハーフマラソンは、ショックの大きい結果となった。

 前年の同大会は1時間11分50秒の19位。故障から回復したタイミングで出場したレースだった。それが今年は1時間13分16秒で42位。この1年間で本格的に復調し、クイーンズ駅伝も19年は2区(3.9km)だったのに対し、20年はエース区間の4区(10.9km)を任され、区間13位と平均レベルには戻ってきた。

 ハーフのレース後には「練習はできていましたし、手応えもありました。疲れのコントロールの問題なのか、試合に合わせる方法の問題なのか。昔と一緒じゃダメなんだと考えるしかありません」と話していた。

 ある意味、そこで以前との違いに気づけたことは大きかった。1カ月間色々と考え、「今回は自分の体を信じよう」という結論を出した。

「今までは何日前なら60分ジョグ、何日前は40分ジョグと決めていました。練習で蓄積したものを試合に結びつけるパターンが確立できていたんです。その方法でハーフのときは大きく外してしまったので、今回は朝起きたときに体の声に素直に耳を傾けて、ジョグを短くしたり、場合によってはやめたりしてここまで調整してきました」

 名古屋で初めて試す調整法になる。ある意味、ぶっつけ本番の賭けに出る形になるが、伊藤にとっては名古屋出場自体がマラソンを追い求める1つのチャレンジである。新しいことを実行するのに躊躇う理由はない。

2月の全日本実業団ハーフマラソンの伊藤は1時間13分16秒と振るわず、調整法の見直しを迫られた<写真:筆者撮影>
2月の全日本実業団ハーフマラソンの伊藤は1時間13分16秒と振るわず、調整法の見直しを迫られた<写真:筆者撮影>

世界陸上入賞時と同じメニューも実施

 伊藤は世界陸上を2回(11年テグ、15年北京)と16年リオ五輪を、日本代表として走ってきた。自己記録(2時間24分42秒)を出した15年名古屋で代表を決めた北京世界陸上は、日本人最上位の7位に入賞。その成績でリオ五輪代表入りも決めた。

 以下が伊藤のマラソン全成績である。

 最終調整の練習が、その頃と同じものでは調子が上がらなくなっているが、ケガから復帰した伊藤は、負荷をかけて行うポイント練習は、当時と同じメニューを行うことができている。河野匡監督は「9割程度はできています。伊藤の練習や行動を見ていると、チャレンジしようとする意気込みは当時と変わらない」と感じている。

 伊藤本人も「あの頃ほどガツガツはできない」としながらも、「40km走や2km×10本、3km+2kmの変化走などメインにしてきた練習は、良かった頃と変わらないくらいきっちりできました」と言う。手応えはないどころか、十分にある。

 試合にピークを上げる部分で工夫が必要だが、初マラソンから11年間で積み上げてきた経験はダテではない。

「10年間はあっという間だったと思うときもありますし、色んなことがあったな、と思うこともあります。テグ世界陸上、北京世界陸上、リオ五輪と出場して、濃い10年間だったと思います。その経験を、後半の走りに生かしたいですね」

 ペースメーカーの設定は第1集団が、中間点通過が1時間10分30秒で5km毎が16分40~45秒、第2集団が1時間12分00秒で17分00~05秒と決まった。さすがに第1集団につくのは難しいので、第2集団でレースを進めるつもりだ。

原点に戻ることで見えてきた道筋

 子どもの頃の伊藤は、得意とはいえないことでも、好きなことはとことんやっていた。「マット運動やができないのがいやで、昼休みや放課後に繰り返し跳び箱て、できるようになるまでやっていました」

 伊藤は京産大で日本インカレ10000mに優勝したが、記録的には32分57秒37が学生時代のベストで、日本のトップとは開きがあった。デンソーで2年間を過ごした後に大塚製薬に移籍。河野監督とともにマラソンに取り組み代表選手へと成長した。

 河野監督は北京世界陸上で入賞する前から、伊藤のことを次のように評価していた。

「取り組みが真摯で心が折れない選手です。走りは(手脚の動きが大きくて)バランスが良くありませんでしたが、体幹やお尻から太腿の筋力を鍛えて軸を作れば代表にもなれる」

 しかし肝心のリオ五輪で46位(2時間37分37秒)と大敗した。準備段階で右足の指を疲労骨折していたのだ。その後17年の大阪国際女子マラソンに出場したが、18年には右足後脛骨筋の断裂で松葉杖生活に。19年9月のMGC(東京五輪マラソン最重要選考会。代表2枠が決定した)出場資格は得られなかった。

 東京五輪への道が閉ざされても、伊藤は走るのをやめようとしなかった。駅伝の戦力として期待されたこともあったが、伊藤は純粋に走ることが好きな選手なのだ。「五輪が全てじゃない」というコメントがメディアに載ったが、五輪中止が取りざたされている社会状況を見て言ったわけではない。

「競技を始めた頃の私は、オリンピックが最大目標だったわけではありません。そのときにできる最大限のことをやって、それが結果として現れたらうれしかった。最初は自己記録だった目標が、だんだん上がって代表選考になり、それがオリンピックにつながるようになったんです。でも、もともとは自己記録でしたし、経験を持つことができた今は、それを生かすマラソンを走るのが楽しみなんです」

2009年11月の上海ハーフマラソンに優勝した伊藤。翌年3月の名古屋で初マラソンに臨むステップとした大会だ<写真:筆者撮影>
2009年11月の上海ハーフマラソンに優勝した伊藤。翌年3月の名古屋で初マラソンに臨むステップとした大会だ<写真:筆者撮影>

 原点に戻ることで、伊藤はやるべきことがシンプルになっている。

「今回の名古屋では最後までしっかり走って持ち味の粘り強さを発揮し、やれることはやったと言えるマラソンにしたい。タイムや順位は、それについてくればうれしいですね」

 経験を積んだ上で、原点に戻った伊藤がどんな走りをするか。前回の記事で紹介した小原怜(天満屋)も第2集団で走る可能性があるが、今年の名古屋は第2集団の選手にもストーリーが詰まったマラソンになる。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

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