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旧ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生した1985年は、日本にとって一大分岐点だった

田中良紹ジャーナリスト

フーテン老人世直し録(665)

長月某日

 旧ソ連の最後の最高指導者ゴルバチョフ元大統領が8月30日に死去し、9月3日にモスクワ市内で葬儀が行われた。冷戦体制を終わらせた政治家としてその名は歴史に刻まれるが、ロシア国内では体制の混乱をもたらした指導者として評価が高いとは言えない。

 プーチン大統領は病院で遺体と対面し花を供えたが、葬儀には公務を理由に参列しなかった。冷戦終結の際、ゴルバチョフは「1インチたりともNATOを拡大しない」という米国のジェームズ・ベーカー国務長官の口約束を信じ、しかしそれは裏切られ、それが現在のウクライナ戦争につながる。プーチンとゴルバチョフの距離感の根底にはそれがある。

 世界が冷戦終結という大転換のスタートラインに立ったのは、ゴルバチョフが共産党書記長に就任し権力を掌握した1985年である。3月に書記長に就任すると、11月に米国のレーガン大統領と米ソ首脳会談を行い、核軍縮交渉を加速させるなど、冷戦終結への道を歩み出した。

 世界が大転換に動いた1985年は、戦後の日本にとっても一大分岐点である。2月に田中角栄元総理が病に倒れ、「55年体制」の崩壊が始まる。4月に電電公社が民営化され、情報化社会への取り組みが始まる。そして日本経済の転落を準備させるプラザ合意は9月に行われた。

 これらはすべて最も格差の少ない経済大国を実現した戦後日本の構造を転換させた出来事だ。そしてフーテンはそれらにすべて記者として関わりを持った。取材メモを紐解いて、戦後日本の転落を準備した1985年という年の知られざるエピソードを紹介する。

 1985年元旦の東京は快晴だった。目白の田中邸では恒例の新年会があり、650人を超す年始客が訪れた。田中は機嫌よく客を迎えたが、竹下大蔵大臣がやや挑発的な発言をしたことにフーテンは注目した。不穏な予感のする年明けだった。

 田中は自分の権力を維持するため、田中派から総理候補を出さないことを徹底していた。後に分かったことだが、この時、金丸幹事長が主導する「創政会」という竹下を総理候補に担ぐ組織の結成が秘かに進行していた。

 その情報が1月末に表に漏れると、議員の激しい奪い合いが始まり、2月7日に「創政会」が結成された。118名の自民党最大派閥田中派は分裂状態に陥る。するとそこから田中の逆襲が始まった。国会で審議中の予算案が社会党と公明党の反対で成立の見込みが立たなくなる。金丸幹事長と竹下大蔵大臣の責任問題が浮上し、彼らは追い詰められた。社会党と公明党は田中の隠れ応援団だった。

 田中は金丸幹事長を辞めさせ宮沢喜一氏に交代させようとした。そうした緊迫した状況の2月27日、田中が脳梗塞に倒れた。それまで日本政治は田中の意向で動いてきたため、田中が突然政界から消えると、政治の先行きはまったく分からなくなった。

 やがて田中の言いなりだった中曽根総理と、最大派閥を率いる金丸幹事長の対立が政治の中心軸になる。同時に自民党と社会党が水面下で手を握り、しかし国民には対立しているように見せかける構造も、続けられないことがはっきりした。そこから政権交代可能な政治を追求する動きが出てくる。これが分岐点の第一だ。

 3月11日、後に世界史を動かすゴルバチョフ書記長がソ連に誕生したことは前に書いた。そして4月1日、日本の電信電話事業を担ってきた電電公社が民営化され、従業員32万人の巨大企業NTTが誕生した。

 電電公社の民営化は、世界の産業構造が「工業化社会」から「情報化社会」に移行するために必要だった。同じ時期に米国は巨大通信会社AT&Tを7分割して競争原理を導入、英国は国営の電話会社ブリティッシュ・テレコムを民営化した。

 「増税なき財政再建」のため、行政機構の改革を主導した土光敏夫元経団連会長は、電電公社総裁に石川島播磨重工の真藤社長を送り込んで民営化に備えた。真藤総裁は一人だけ公社に送り込まれて苦労する。その時、民営化の意義を国民に広めるため、記者たちと恒常的に勉強会を持った。フーテンはその一員となり、情報化社会について勉強した。

 工業化社会では「鉄」が「産業のコメ」と言われる。「コメ」とは、それがなければ生きられないほど重要という意味だ。工業化社会では「鉄」の値段を下げることが競争力となる。情報化社会の「産業のコメ」は「通信料金」だ。通信料金を下げることに各国は力を入れた。電電公社民営化の目的は通信料金を下げる事だった。

 米国はAT&Tを7分割して通信料金を10分1に下げた。それが国民を巻き込みパソコンの普及を促進する。ところが日本ではNTT東とNTT西の2分割しかできず、通信料金はほとんど下がらなかった。

 日本では変革を望まない既得権益が強かった。電電公社に影響力を持っていたのは田中角栄元総理だが、電電公社の技術部門が田中に陳情し、それが真藤社長の電電改革を阻んだ。また労働組合も分割に反対した。組合員の数の多さが組合の強さになるからだ。

 通信料金が下がらなかったことで、日本のIT改革は諸外国より遅れた。一方で、電電公社が世界に先駆けるサービスを始めていたこともネックになった。例えば日本には公衆電話ボックスが至る所にあり、それに投資した分を回収しなければ、携帯電話を普及させられない状況があった。

 また電電公社は大容量通信を可能にする光ファイバー網を全国に張り巡らしていた。米国もクリントン政権が光ファイバーを敷設しようとしたが、日本より遅れていることを知ると、従来の銅線でも大容量通信できるデジタル技術の開発に力を入れた。

 そしてテレビでは、米国がデジタル多チャンネル放送を推進して新規事業者を参入させ、競争を促す体制を目指したのに対し、日本はNHKが開発したハイビジョンにこだわり、アナログハイビジョン放送によって既存の放送局に有利な体制を目指した。

 放送機器メーカーとして世界一だったソニーは、アナログハイビジョンにこだわったためその地位を失う。ソニーはゲームや映画などソフトの分野に転身せざるを得なくなった。洗濯機やテレビなど家電分野で世界のシェアを握っていた日本の電機メーカーは、米国の真似をしてデジタルを追求した韓国や台湾のメーカーに抜かれて行く。

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ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:5月26日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

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