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板谷栄司 2千曲以上演出、フジテレビ伝説の音楽演出家が突然退職し、書道家に転身した理由<前編>

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
写真提供/本人(以下全て)

フジテレビで『FNS歌謡祭』『僕らの音楽』『Love Music』他数々の音楽番組を手がけた鬼才プロデューサー・板谷栄司氏が、昨年突如退職

2022年3月末。テレビ業界、音楽業界がざわついた。それはフジテレビで『FNS歌謡祭』 『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』『僕らの音楽』『SMAP×SMAP』『Love Music』『ミュージックフェア』など数々の音楽番組を手がけた名プロデューサー・板谷栄司氏が同社を退社し、書道家の道へと舵を切ったからだ。高校、大学生時代に書道でその名を轟かせていた板谷氏は「書道熱がテレビ局でやりたいことを超えた」と、50代で舵を切ったというより、“元の道”に戻ったといった方が正しいかもしれない。

『僕らの音楽』(2014年 タイプ⑩ロゴ)
『僕らの音楽』(2014年 タイプ⑩ロゴ)

『Love music』(2015年)
『Love music』(2015年)

板谷氏が企画、10年間演出した『僕らの音楽』や『Love Music』の番組タイトルも自らが揮毫(毛筆で文字を書くこと)するなど、番組セットも含め全ての番組に関わる空間の美意識は、全て彼が一貫して創り出した。2018年に自身の希望でフジテレビ美術制作局に異動、総合プロデューサーとして翌年立ち上げた『第1回フジテレビジュツ博』や2021年には『巨大映像で迫る五大絵師 -北斎・広重・宗達・光琳・若冲の世界-』のクリエティブディレクターを務めるなど活躍していたが、翌年いきなり退社。

“板谷栄司with鯖大寺鯖次朗”として書道活動を始動した板谷氏にインタビューし、フジテレビ退社の経緯、それまでの音楽番組のフォーマットを打ち破った独自の演出方法、そして書道家としての今後などを聞いた。

「大学時代寝食を忘れ没頭し、書道を追求していたあの時のもう一人の自分が、今頃になってざわつき始め、手に負えなくなって退社を決意」

『五大絵師-北斎・広重・宗達・光琳・若冲-』(2021年)
『五大絵師-北斎・広重・宗達・光琳・若冲-』(2021年)

まずは単刀直入にフジテレビを退社した理由から聞いた。数々の音楽番組、バラエティ番組を手がけ、そして立ち上げ、どこかに「やりきった感」があったのだろうか。

「やり切ったというよりは、美術に関心が深まったからです。『FNS歌謡祭』、『SMAP×SMAP』は10年以上、『僕らの音楽』も10年、『ミュージックフェア』 『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(以下HEY×3)等では歌だけでなく、音楽を包む空間が歌にどれほど重要かと考え続けて来た結果、空間にLED映像や、じっとしていない動く美術セットなど、歌以外にも関心が深まり、様々挑んだ先には、遂に映像だけで新機軸な美術展がしたい!と企む気持ちがむくむく湧いてきました。音楽演出の次は全く新しいデジタル映像美術展を実現したくて、美術制作局への異動願いを伝えたら、上司からは『正気か?』と言われました(笑)。2022年『巨大映像で迫る五大絵師-北斎・広重・宗達・光琳・若冲の世界-』を実現した後に、かつて書道家になる決意で上京、大学時代寝食を忘れ、書に没頭して現代アートと書道とは?ということを追求していた、あの時のもう一人の自分が今頃になってざわつき始め、もはや手に負えなくなり退社を決意しました。しかしこの挑戦は全く別のことを突然始める訳でなく、これまで2000曲は遥かに超える音楽の映像制作と、曲の数だけ制作したLEDのCG映像、ライティング、美術セット等これら30年に亘り培った経験と、脳みそ奥深く刻まれた歌々の全部を背負い、これからは全く対極に、一本の筆で究極にシンプルな芸術表現の書作に、精魂をぶつけたいと思っています。30年前には表現できなかった世界を、これまでの音楽演出の経験を全て投影した世界観で、始動します」。

学生時代、あらゆる賞を受賞した天才書道家が、テレビマンの道を選んだ理由

近畿大学付属高校時代から学生書道展では数々の賞を受賞し、東京学芸大学教育学部芸術課程書道専攻科に進んでからも、あらゆる賞を受賞した氏が、なぜテレビマンを志したのだろうか。

「卒業した1993年頃は書道が今ほどポピュラーではなく、「日展」を中心にした様々な受賞歴を重ねていくことが、プロ書道家への唯一の道だったといっても過言ではありませんでした。私も当然そのザ・書道界の中で生きていこうと思っていました。しかし1990年頃、時代は徐々に現代アートが脚光を浴び始め書道×現代アートという芸術があってもいいんじゃないかと思い、書道を現代アートの視点から見た作品を制作し、学内の美術館を友人と毎月貸切り、二人展『書の模索展』を開催しました。ますます現代書道とは⁉の世界にのめり込んでいきました。学内の関係者、美術関係者からは『もはや書道ではない!』とか『面白いが、新し過ぎて書道として理解出来ない』と批評され、当然留年。書道作品が現代アートとして見てもらえる環境は、醸成されていきませんでした。それなら別の視点から、一番もの作りができる環境に身を置き、刺激ある経験を積み重ね、書家の栄養にしようと考え、フジテレビ、テレビ東京、電通の3社を受けました」。

「フジテレビ色もの採用」と言われた新入社員時代

その年からフジテレビは大学時代にひとつのことを徹底的に深く掘り下げ、やり遂げてきた学生を採用する“一芸一能採用”を開始した。

「私はその初年度で、面接にたくさんの作品集を持参し、理解されないかもしれない『現代の書道作品』を猛烈にアピールして、なんとか合格することができました。一般採用とは別のこの採用で毎年5~6名が入社しましたが、どいつもこいつも手に負えなかったのか、わすか三年で採用は終了し、後に『フジテレビ色もの採用』『フジテレビ横入り組』と言われました(笑)」。

『書道以外に小津安二郎監督作品がとにかく好きで、いつかは人生を感じる番組創りをしたいです。書道は思うところがあり、筆を折りました!!』

しかしわずか3年のこの採用では、板谷氏の他にも、その後のフジテレビの数々の人気番組を創るヒットメーカーが入社している。93年にフジテレビ入社後、ドキュメント番組を企画できる企画制作部を志望したが、映像企画部に配属される。最初の仕事はフジテレビに眠る膨大なアーカイブテープを整理するように言われ、テレビがない学生時代を過ごした板谷氏は、もっけの幸いとばかりに観たことがなかった『夜のヒットスタジオ』『オレたちひょうきん族』『北の国から』などの番組を約2年間、仕事の傍ら資料室に入り浸り、来る日も来る日も過去番組を観続けた。そして突然のバラエティ班への異動。『ミュージックフェア』のADとなる。『ミュージックフェア』『HEY!HEY!HEY!』を始め、同社の既存の音楽番組は、当時の板谷氏の目にはどう映っていたのだろうか。

「入社後、数年はいわゆるダメ社員でした。とんでもない競争率をくぐり抜けテレビ局に受かる強者たちと、私のような、芸術作品なのかどうだかわからない作品にのめり込んでいた学生とでは、そもそもタイプが違いすぎ、TV業界自体の空気感やノリに最初は面を食らい続けました。新入社員研修の時、フジテレビの音楽番組の顔ともいうべき存在の石田弘プロデューサーに、当時社内に『視聴率三冠王!!』と筆で書いた紙があちこちに貼られていて、『お前は“三冠王”と書きにフジテレビに来たのか!!』と云われました(笑)。『僕は書道以外に小津安二郎監督作品がとにかく好きで、いつかは人生を感じる番組創りをしたいです。書道は思うところがあり、筆を折りました!!』と言い返すと、石田Pは『ほ〜、テレビで小津安二郎か〜。面白い!!』と笑っていました(笑)。その後AD時代を経て98年にディレクターに昇格、私のデビュー作は『ミュージックフェア』で海援隊、河島英五、ル・クプルの演出でした。収録日の最初の収録曲は河島英五の『酒と涙と男と女』を、海援隊との共演でモノクロ、カットなしのワンカメで収録しました。ディレクター席の私の真後ろに座っていた石田Pは何も云わず、じっと見ていました。きっと、何だこりゃ、ヘンテコな奴だな!?と思ったのでしょう(笑)。その頃の音楽シーンは小室哲哉プロデュース全盛の時代で、フジテレビでは『HEY×3』がゴールデンタイムで高視聴率を連発している時でした。先輩ディレクターはバリライト、クレーンを使い、お客さんを入れ、とても派手な演出で攻めていました。一方私はというと全くの対極ともいうべき、時流に反した少ない照明、カメラワークはじっくり、人生を感じる映像創りを意識!?して、『ミュージックフェア』の現場で我流映像制作を日々追求していた、そんな駆け出しディレクター時代でした」。

それまでの音楽番組のフォーマットやセオリーに囚われることなく、自身の美意識を貫く。『FNS音楽祭』で見せた革新的な演出

板谷氏はそれまでの音楽番組のフォーマットやセオリーに囚われることなく、自身の美意識を演出やセットに次々と反映させていった。その仕事の中でも『FNS歌謡祭』は豪華絢爛なセットと、当時は珍しかったアーティスト同士のコラボを実現させ、“一夜限りの上質なショウ”を演出。レアなコラボの数々に多くの視聴者は夢中になった。

「2002年とにかく急過ぎる階段をがむしゃらに登り続けた結果、念願の『FNS歌謡祭』の演出を担当する事になりました。それまで新高輪プリンスホテル飛天の間には4〜5ステージが配置されていましたが、思い切って大きな2ステージを真正面に配置、巨大なシャンデリアが輝くパリの古い大劇場をヒントに、様々な劇場を研究し、壁の質感、床の柄、模様、生演奏のストリングスは衣装・譜面台・椅子の質感までこだわりました。できるだけ間接照明にしたクラシックなステージと、LED映像を配置した派手なステージと対極一対の美術セットを作りました。営業のスポンサー様用だったテーブル席には出演するアーティストに座ってもらい、時間毎の席替え表も作り、パフォーマンスをしているステージを出演者が見つめる空間を、視聴者に見てもらうようにしました。しかし当時の音楽番組はヒット曲が少なくなる冬の時代に突入、他局を含めどの音楽番組も低視聴率時代に入っていました。私は『ミュージックフェア』で経験したコラボレーションに活路を見いだし、以後徹底的にコラボを追い求め、常識を覆す10曲連続や30分ノンストップメドレー等、生放送の限界に挑戦し続けました。この頃『僕らの音楽』、『SMAP×SMAP』を並行して制作していたので、様々なヒントがあちらこちらにありました。意外なコラボや一夜限りのステージは、それら各番組との関連からもたくさん実現しました。中でも宝塚歌劇団がミュージカルメドレーを他のアーティストと共演したり、『マツケンサンバ』を客席で観ているビヨンセの前で歌ったり、数限りないたくさんのアーティストの方々の、素晴らしいシーンを思い出します」。

<後編>に続く。

■板谷栄司(いたや・えいじ)/1993年東京学芸大学教育学部芸術課程書道専攻科卒業。同年(株)フジテレビジョン入社。『FNS歌謡祭』『僕らの音楽』『SMAP×SMAP』を始め、数々の音楽番組の演出家、プロデューサーを歴任。2022年3月末、同社退職。書道家に転身。趣味はルアーで巨大魚釣り、ハゼ釣り

板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 オフィシャルサイト

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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