ニイタカヤマに初登頂したのは誰だ? 知られざる探検家を探れ

台湾の山岳地帯を縦走中の土倉龍次郎(左から2人目)一行(土倉家提供)

 もしかして、土倉龍次郎は新高山に初登頂したのではないか?

 そんな可能性が見えてきた。土倉龍次郎とは、先に

台湾で引き継がれる日本人の夢 「山林王」「電力の父」土倉龍次郎の功績とは

として紹介した、明治中頃の林業家である。日本領有直後に台湾に渡り、全島を探検したうえに約1万ヘクタールの山林を租借して林業を始めた。さらに台湾初の水力発電所の建設に邁進した人物だ。

 そして新高山は、現在「玉山」と呼ばれる台湾の最高峰にして東アジアでもっとも高い山である。標高3952メートル。亜熱帯に位置するものの、冬には冠雪する。富士山より高い山、ということで明治天皇が新高山と名付けたという。

 先の記事では「この探検で阿里山の大森林を発見し新高山に初登頂したと、土倉家には伝えられています」(龍次郎の五男土倉正雄氏)と記した。この証言を聞いたときは、さすがに「まさか……」と思った。土倉家内の口伝にすぎないし、ちょっと大風呂敷を広げたのではなかろうか、と。

 だが龍次郎の足跡を追う中で、本当に新高山に登った可能性が出てきた。さらに阿里山の大森林も発見した可能性も浮かび上がってきたのだ。

領有直後の台湾探検ブーム

 これまで新高山の初登記録者としては、1900年4月11日に登頂した人類学者の鳥居龍蔵と、彼を助けた台湾先住民研究家の森丑之助だというのが定説となっている。

 しかし、それ以前に台湾深部の山岳地帯に挑んだ者はいた。日本の台湾領有直後である1896年9月28日に、陸軍中尉の長野義虎が先住民調査のため台湾中央部の山岳地帯に入り、新高山に登った記録を残している。さらに11月には本多静六林学博士と齊藤音作が森林測量を目的に登頂したという。また1898年12月にはドイツ人のステーぺルが新高山(欧米名モリソン山)登頂に成功したとされる。

 だが、これらの記録に対して鳥居龍蔵は「彼らが登ったのは新高山東峰(3,869m)だ」と主張して、結果的にそれが認められた。そして「初登頂したのは鳥居龍蔵」と信じられたのである。

 鳥居の台湾調査は東京人類学会より派遣されたものであり、東京帝国大学が調査のバックにいた。人類学や考古学で確固たる業績をあげる鳥居の言葉は強かったのだろう。

鳥居龍蔵の初登頂に疑問

 だが、疑問の声は上がっていたようだ。

 1934年の日本山岳会発行の「山岳」には、沼井鐡太郎が長野の登攀ルートを確認したところ、東峰に登っていたら記述が変である、また山頂からの景観描写も主峰に適していると指摘している。また現在の台湾の登山史研究家である楊南郡氏も「台灣百年花火」の中で、長野中尉の講演録の記述を点検して、主峰に登ったと主張している。

 加えて新高山に登り東埔に抜けたのなら、そのルート上にある阿里山にも分け入ったと思われ、巨木が林立する大森林を目にした可能性も十分にある。

 そして、ここからが重要なのだが、実は長野氏の探検に、龍次郎が同行していたかもしれないのである。当時の新聞記事に、長野義虎氏と1896年に一緒に台東より八通關古道を経て新高山を登攀して東埔に下がったとあったのだ。また、長野氏の探検手記(講演録)にも、龍次郎が同行したことを示す記述があった。

 さらに鳥居とともに新高山を登り、台湾の先住民研究でもっとも現地を歩いたと思われる森丑之助も、龍次郎を評して「民間側の人にして大和の林業家土倉龍次郎氏は全島蕃地の大部分に渉り、其時代に於て施行され得る區域は概ね探検を遂げ、その長野氏の探検の如きも、参謀本部よりの命令も依りたるが、其内質は土倉氏の援助に依つて、土倉氏と伴に為されたるものが多いやうである。」と記す。

 もともと長野氏は土倉家と縁浅からぬ関係で、龍次郎が台湾に渡る際も、彼に軍属の資格を与えて同行した間柄だ。一方で土倉家は、長野氏の探検を資金面で支えたとされる。つまり龍次郎はスポンサーであり、自身が参加していても何らおかしくないのだ。

忘れられた探検家に光を

 土倉龍次郎だけでなく長野義虎も、現在では忘れられた探検家である。しかし東アジア最高峰の初登頂をしたとしたら、改めて注目するに値する。日本、そして台湾の登山史を描くに当たって、誰が初登頂したのかは重要である。

 とはいえ、確実な証拠はまだ見つかっていない。鳥居が長野らの登山を主峰ではなかったとする根拠も未読なので検証できていない。当時は清代に開かれた古道と、先住民の道をたどって登ったとされるが、そのルートの確認も必要だろう。

 今後も資料の探索と分析を行いたいと思うが、やはり新高山(玉山)を古道をたどって登らないといけないかなあ、と思う昨今である。

 なお龍次郎や長野らの資料の探索には、台湾の謝英俊氏の協力が欠かせなかった。彼は日本語に堪能で、台湾に残る日本語文献も渉猟して提供してくださった。ここに感謝の意を伝えたい。