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「母の日」提唱者と花卉業界が繰り広げた確執の黒歴史

田中淳夫森林ジャーナリスト
「母の日」は提唱者の意図とは離れて拡散し続けた。(写真:ロイター/アフロ)

 今年の「母の日」は、5月12日。毎年5月の第2日曜日と定められている。
「母の日」に文句をいう人は少ないと思うが、ここではあえて「母の日」を巡る黒歴史に触れたい。

「母の日」が生まれたのは、1908年5月10日だ。アメリカ・ウェストバージニア州のアンナ・ジャービスが、(南北戦争時に敵味方問わず負傷兵の世話をする活動をした)自身の母の没後3年目に開かれた式典に、母親が好きだった白いカーネーション500本を贈ったことをきっかけとされる。その後、彼女は「母の日」を国の祝日にするべく運動を始めた。

ビジネス・チャンスと捉えた花卉業界

 1914年に、米国連邦議会が「母の日」を決議して、「母の日宣言」にウィルソン大統領が署名した。そして5月の第2日曜日を「母の日」とするよう定める。
 これがまたたく間に広がり、アメリカのみならず世界中に広がった。

 なぜ「母の日」制定に多くの国が前向きだったのか。いろいろ社会的な背景はあるのだが、一つ大きなことは、「母の日」がビジネス・チャンスにつながると考えた業界が力を入れたことがあるだろう。

 とくに花卉業界にとっては、クリスマスなどと並ぶ巨大なマーケットになるチャンスと捉えた。つまり「母の日」に白いカーネーションを! という売り文句に花を栽培・販売する業界が飛びついたのだ。この時点で、母の日にふさわしいとされるのは、白いカーネーションだった。

 実際には、カーネーションだけでなくさまざまな花、キャンディー、グリーティングカードなどの商品の販売につながりビジネスとして大きく広がっていく。

 日本でも、チョコ菓子業界が「バレンタインデーにチョコレート」、海苔業界が「節分に恵方巻」をしかけたことが知られるが、いずこも記念日などのイベントに乗っかることは大きなビジネスになるのだ。

生産者の都合で変えられた花の色

 ところが、肝心の白いカーネーションは「母の日」が拡がるにつれて品不足になっていく。値段も高騰した。4年で30倍にもなったという記録がある。

 そこで花卉業界は、白いカーネーションの代わりに「亡き母の思い出には白い花を、元気なお母さんには明るい色の花を贈りましょう」という代案を考え出した。結果的に赤いカーネーションが多く出回るようになる。

 アンナ・ジャービスは、このことに激怒する。「花卉業界は白いカーネーションの象徴性を悪用している」と批判を強めるようになった。母親の生死を花の色で区別することはもとより、自分の母が愛した白いカーネーションを「弔いの象徴」にされたことを裏切りと感じたのである。

 そこでカーネーションではなく「母の日」缶バッジを製作したり、花を買うよりアメリカ国旗を家に飾ることを勧めるようになった。なんとか花卉産業の商業主義を抑え込もうとしたのだ。

 また1912年に母の日国際協会(MDIA)を設立していたが、この動きに合わせて「母の日」の名称やシンボルマークをすべて商標登録し、「母の日」を法的にも自分たちだけで管理しようとした。

商業主義の「母の日」を攻撃した提唱者

 その後も彼女は、「母の日」で儲けようとする業界への攻撃を強めていく。花やお菓子、グリーティングカードなどの業界に、著作権を侵害したりしていると繰り返し非難を続けた。

 1922年には、毎年5月になると白いカーネーションの値段を上げる花屋に対し、ボイコットを訴えた。その翌年には、母の日に関する小売菓子店の大会に乱入して騒ぎを引き起こす。お菓子業界の大会に乱入したときは逮捕されている。

 そのほかにもルーズベルト大統領や、母の日を慈善活動の資金集めに利用した大統領夫人に訴訟を起こすと脅迫染みた電報を打ったり、母の日を廃止するための嘆願書を集めたこともある。

 ここまですると、ちょっと狂信的な感じがしないでもないが、その裏には「母の日」が愛国運動に結びつき、純粋な母への追慕の日でなくなってきた面もあるかと思う。

 たとえば戦争で犠牲となった兵士たちの母親が、アメリカン・ウォー・マザーズ(AWM)という全国組織を立ち上げたが、その資金集めに「母の日」のカーネーションを販売するなどしたからだ。この団体は、アンナ・ジャービスが「母の日」を創設したという経緯も否定しようとした。彼女の提案より以前から「母の日」はあったと主張したのである。

 そんな動き全体をアンナ・ジャービスは嫌ったのだろう。

変容する「母」の意味と記念日

 しかし彼女の主張とは裏腹に、「母の日」は世界中に広がり、商業主義も強まっていく。また目的もさまざまに変容した。

 現在でも、花卉業界にとって「母の日」が重要なビジネス・チャンスなのは間違いないだろう。また「自分の母」を想うという当初の趣旨から、世間の母全般、あるいは聖母マリア、あるいは歴史上の女王を讃える祝日へと「母」の意味そのものを変える国も少なくない。

 ちなみに日本で初めて「母の日」のイベントが行われたのは1915年とされる。キリスト教団体の間で「母の日」が祝われた。ただ5月の第2日曜日だったわけではないようだ。

 昭和天皇の香淳皇后の誕生日(3月6日)を「母の日」にしようと大日本連合婦人会が言い出したこともある。1937年には、菓子会社が「母の日大会」を開催したことで世間に知られるようになったが、日曜日ではなかったし、すぐにカーネーションとはつながらなかった。

 結局、日本でも広く「母の日」が普及したのは戦後のようである。

 日本でも一時期はアメリカと同じように生きている母には赤いカーネーション、亡くなった母には白いカーネーションとされたが、今では色を分けなくなった。さらにカーネーションだけでなく、バラやアジサイなど多くの花に広がっている。

 また「母」だけではなく、女性全般に目を向けた「国際女性デー」も国連によって制定された。こちらは3月8日で、象徴として選ばれた花は、ミモザである。

花は国際的な巨大ビジネスへ

 ちなみに日本のカーネーションは、過半が外国産。2021年に流通したカーネーションの65%が輸入品だった。本数にして約3.7億本。輸入元は南米コロンビアからが68%を占めた。実はカーネーションに限らず、切り花には輸入が多い。アメリカでも花の市場は、8割以上を輸入花が占めている。

 一方生産地は、コロンビアだけでなくエクアドル、ケニア、タンザニアなど南米や東アフリカ諸国に広がる。そうした国々では超巨大農園が作られて栽培されて国の貴重な産業となっている。そして世界の花の市場を動かすまでに成長した。

 今や花は国際的な商品であり、「母の日」も巨大ビジネスへとなった。アンナ・ジャービスの思いとは反しているが、もはや止まることはないだろう。

園芸探偵・松山誠氏の『「母の日」という新しい〈もの日〉の誕生~創設者、アンナ・ジャービスと花業界』(農耕と園芸onlineカルチベ)などを参考にさせていただきました。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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