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台湾で引き継がれる日本人の夢 「山林王」「電力の父」土倉龍次郎の功績とは

田中淳夫森林ジャーナリスト
日本領時代の台湾北部の地図。台北市南部に亀山がある。(土倉家提供)

日本固有のスギが台湾の山にある理由

 森を歩き始めてすぐ目に入るのは、樹上の着生植物オオタニワタリ、大きなバナナやクワズイモの葉、不思議な形状の木性シダ……いかにも亜熱帯の森だ。

 ここは台湾・台北市の南約30キロの烏来・亀山地区にある標高 916mの大桶山。今年6月下旬に在台邦人と台湾人とともに登ったのだ。森の風景に南国風情を感じるが……ほどなく目に映ったのは馴染みのある樹木だった。

 スギだ。亜熱帯の山に似合わぬ真っ直ぐな幹が林立した一帯に踏み入れたのだ。

大桶山の山腹はスギ林で覆われていた。(筆者撮影)
大桶山の山腹はスギ林で覆われていた。(筆者撮影)

 この登山行を主催するソンさんこと曽根正和さんが、参加メンバーにスギについて解説するよう促したので、私が即興で説明した。「スギは日本固有の樹木で、学名はクリプトメリア・ヤポニカ。“日本の隠された宝”という意味です。もっとも日本ではどこにでも植えられています」

 私の言葉をソンさんが訳してみんなに伝える。スギは日本にしか自生しない固有種だ。そのスギが台湾の山中にあるのは、人が植えたからにほかならない。私は、スギを台湾に持ち込んだ男の足跡を追うために訪れたのだ。その人物は、土倉龍次郎。明治時代に烏来地方の南勢渓と桶后溪の山約1万ヘクタールを租借して、台湾で初めて近代的な育成林業を手がけた男である。

吉野の山林王の息子が抱いた夢

 私は龍次郎の事業の名残を探して、山に多少ともスギが残っていたらよいが……と大桶山に登ったのだが、意外やこの山でスギは珍しくなかった。登山ルートの大半でスギが見られたのだ。山腹の広い面積がスギ林となっていた。龍次郎の植林した面積は想像していた以上に広かった。そのうち“台湾の隠された宝”になるかもしれない。

 ただ幹の直径は40センチ程度なので 100年以上前に植えられたスギではないだろう。 100年生のスギなら直径80センチ以上あってもおかしくない。戦後一度伐採された後に再造林されたのではないか。そんな想像をしながらスギ林の中を歩く。

 龍次郎は、1870年奈良県吉野郡川上村に土倉庄三郎の次男として生まれた。庄三郎は吉野の山林王として知られ、土倉家の財産は財閥・三井家に匹敵すると言われた。そして自由民権運動に参加して多大な支援を行い、板垣退助や大隈重信、山形有恒など明治の元勲と呼ばれる人々と昵懇の間柄だった。一方で新島襄の同志社大学や成瀬仁蔵の日本女子大学の設立にも尽力した。娘もアメリカに留学させている。だから林業によって明治の近代化を押し進めた男と称されるほどだ。

 そんな父を持つ龍次郎は、幼い頃から同志社に寄宿して育ったが、幕末に密航してアメリカに渡った新島襄の影響を強く受け、早くから海外雄飛を志した。当初は南洋諸島をめざしたが父に反対され、日清戦争で領有したばかりの台湾に目を向けた。父もそれを許し、領有直後の1895年12月に軍属の資格で台湾に上陸する。25歳だった。

台湾に渡ったころの土倉龍次郎。(土倉家提供)
台湾に渡ったころの土倉龍次郎。(土倉家提供)

 当時の台湾は、清国から日本に割譲されたばかりで、抵抗運動が根強く続けられていた。

 また山岳地帯は国家の統治を受け入れない先住民、いわゆる高砂族の領域だ。そこで龍次郎は台湾北端の基隆から90余日かけて山岳地帯を歩き台南まで縦断し、地勢を調査したという。台湾の空白地域にもっとも早い時期に分け入った探検家でもあったわけだ。

 龍次郎の五男である正雄は、「途中、先住民に首を狙われるなど危険な目にあったそうです。また真偽のほどはわかりませんが、この探検で阿里山の大森林を発見し新高山に初登頂したと、土倉家には伝えられています」と生前語っていた。

 龍次郎が海外へ出る夢を綴った父宛の手紙には、新島先生の偉業を見習いたいが、自分は学者よりも実業家になりたい、艱難辛苦を乗り越えて親の恩に報いるとともに国家の役に立ちたい……とある。その文面からは、大金持ちの家に生まれ育ったものの、自身の手で事を成したい思いが滲んでいる。その舞台として選んだのが台湾だったのだろう。

先住民との共存めざした事業

 龍次郎は、自らの活動の拠点を亀山に定めた。そして台湾総督府にこの地の開発計画を幾度も出して1899年より 300年間租借することに成功する。計画では、この地域の山に多いクスノキを伐採して樟脳を生産するとともに、跡地に植林を進め林業を行うというものだった。その際に「蕃政は即ち林政」という経営戦略を立てる。この地は先住民の襲撃が絶えず危険な地であったが、林業を興すことによってこの地域の先住民(アタイヤル族)に利益をもたらし懐柔する政策である。

 龍次郎は亀山にクスノキで建てた事務所を築くほか先住民との物品交換所を開き、道路を建設した。また炭焼きを教えて現金収入の得られるようにした。働く先住民用の宿舎も建てた。折しも台湾総督に児玉源太郎、民生局長に後藤新平が着任し、領有直後の強圧的な軍政から中国人や先住民との共存策への転換期であった。

 1903年にスギ86万本、ヒノキ26万本を144 ヘクタールに植林した記録がある。私が目にしたスギも、その名残だろう。

 事業が軌道に載り始めると、中国人や先住民のリーダーたちを日本に招待した。日本の発展を見せることで台湾の未来を描かせたのかもしれない。いまだ日本支配に抵抗する中国人・先住民もいたが、共栄の道を説いたのではないか。後藤長官が亀山を視察した記録によると「土倉君は実に能く生蕃(先住民)を撫せり。……蕃人は愈愈これに服し、出入りすること家人の如し」と記されている。龍次郎は、土倉頭家(トーヤンタウケ。土倉の大旦那)と呼ばれていたという。

日本を訪問した高砂族や中国人。吉野で撮影。前列中央に龍次郎らとともに写る。(土倉家提供)
日本を訪問した高砂族や中国人。吉野で撮影。前列中央に龍次郎らとともに写る。(土倉家提供)

 1903年、渓谷の豊富な水量に目をつけて、発電事業を興すことを思いつく。そこで台北電気株式会社を設立した。当時、台北には自家発電レベルの小さな発電施設しかなく民間では電気を使えなかった。だが電力こそ殖産興業に欠かせないインフラだという認識は強まっていた。

 計画は3案立てられたが、龍次郎の選んだのは水路を引いて落差約15メートルを確保し1000キロワット級の発電を行うというもっとも規模の大きな案だった。

 この事業は、資金調達の過程で総督府が買収することになり、官営発電所として05年に完成した。これが台湾で初めての系統的電力供給となった。台北など3地域に電灯が灯り、台湾の電化時代を切り開いて近代化の道筋をつくった。龍次郎の肩書は顧問だったが、計画時から深く関わっていたのだから、台湾電力の父であり先駆者と呼んで過言ではないだろう。

 私の第2の目的は、龍次郎が関わった発電事業の痕跡を見つけることだった。大桶山を下ると新店渓沿いの道を歩いた。ここにダム(現在の基準からすると堰)を築いて導水路を設け、下流の発電所へ落差をつけて送り込んだはずだ。

 やがて川底にわずかなコンクリートの痕跡が見つかった。これが当時の導水路の土台部分らしい。1941年、上流に新亀山発電所が建設されたため亀山発電所は運転を止めたが、川は幾度も氾濫を繰り返したというから、その度ダムを削ってしまったのだろう。

新店渓に残るダムの痕跡。(筆者撮影)
新店渓に残るダムの痕跡。(筆者撮影)

 さらに道を数キロ下り亀山の町に入った。ここに発電所が築かれたのだ。残念ながらこちらも現在残っているのは、コンクリートの土台だけである。ソンさんによると、10数年前までは建造物があったそうだが,やはり洪水で崩壊したらしい。当時の写真では、レンガづくりの風情ある建物なのだが……。

龍次郎の名刻む発電所跡の記念碑

 龍次郎は、1907年台湾の事業をすべて売却して日本に引き揚げる。そこには土倉本家を引き継いだ長男鶴松の事業の失敗による経済的破綻などの事情が絡む。兄も事業欲が盛んだったが、主に大陸中国に莫大な投資をした。だがことごとく失敗し吉野の所有山林を差し押さえられる事態に陥るのだ。

 龍次郎は本家の負債を少しでも返すため、台湾の事業を三井合名会社に22万円で売却する。その金はすべて本家に差し出したという。

 三井は引き継いだ事業を発展させるが、台湾の政治的変遷もあって先住民を強制移住させるなど強圧的な展開となったという。そして戦後はすべてを手放す。結果的に台湾の殖産興業の創成期を担った龍次郎の事績はほとんど忘れられてしまった。台湾に残るのは、スギ林とわずかなコンクリートの土台だけ……。

 が、草に埋もれた発電所の土台の一角に金属製のプレートがあった。

「龜山發電所 第一台灣記念碑」。

 ここに台湾で最初の水力発電所が築かれたことを示す碑であった。説明文の漢字を追いかけると、「土倉龍次郎」の文字も目に入った。

 忘れられていなかった。説明によると台北県文史学会が亀山発電所完成 100年に当たる2005年、この発電所が建設される経緯を追う中で土倉龍次郎の存在に行き着いたそうだ。そして龍次郎の子孫に話を聞くため日本にも足を運び、その様子はドキュメンタリー番組にもなったという。今では産業遺産として発電所跡を残そうという運動もあるらしい。台湾では、日本時代を再検証する動きが進んでいたのである。

亀山発電所跡にあった記念プレート。(筆者撮影)
亀山発電所跡にあった記念プレート。(筆者撮影)

 もう一つ気づいたことがあった。亀山の町に行政院農業委員会林務局(林野行政に関する役所)の教育訓練センター、そして台湾電力の訓練所があったことだ。龍次郎が手がけた林業と電力という二大事業に関わる人材の養成が、この地で行われているのである。

 偶然かもしれないが、台湾の人々が龍次郎の足跡を消さずにいてくれたように感じて嬉しくなった。

 帰国した龍次郎は、東京の目黒に居を構えカーネーション栽培の事業化に取り組み、日本の「カーネーションの父」と呼ばれるようになった。また内モンゴルで知ったヨーグルトを商品にできないかと相談に来た三島海雲を支援して、カルピスの開発も成功させた。

 龍次郎の人生を追うと、壮大な事業欲はあるが財産や名誉には恬淡とした姿勢を感じる。挫折にめげずに新たなものに挑戦し続けるが、名を残すことに興味を示さない。そのため忘れられたのかもしれない。だが彼の足跡は、日本でも消すべきではないだろう。

参考

カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」

母の日110周年!カーネーションの父の話

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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