母の日110周年!カーネーションの父の話

母の日と言えば、カーネーション。(ペイレスイメージズ/アフロ)

明日は母の日。

「母の日」が生まれたのは、1908年にアメリカのフィラデルフィアで、アンナ・ジャービスが亡き母の追悼式で、母が好きであった白のカーネーションを捧げたことに由来する。つまり、今年は母の日誕生110周年である。(5月第2日曜日を「母の日」としたのは14年)

 そして母の日は、由来のとおりカーネーションと切っても切れない関係のわけだ。そこで、このカーネーションが日本で栽培され始めたきっかけをつくり「カーネーションの父」と呼ばれる人物について紹介しよう。

 

 記録に残る日本にカーネーションを持ち込んだ第1号は、澤田某という人物である。残念ながら素性もフルネームもわからない。ただアメリカのシアトルに在住していて、1909年に帰国する際にいくつかのカーネーションの品種を持ち帰ったのだという。「母の日」が誕生した翌年である。

 そして東京市近郊の中野町城山に小規模な温室を建てて栽培したとある。ただし、適切な栽培法を知らないまま取り組んだため、3年間悪戦苦闘して、ようやく成功したものの、身体を壊した澤田は病没してしまった。事業としては上手くいかないまま終えたようである。

 

 澤田に代わってカーネーション栽培に取り組んだのが、土倉龍次郎である。遅れること1年、1910年にアメリカから赤と白のカーネーションの種子を取り寄せ栽培に着手した。

 ちなみに龍次郎の弟四郎は、横浜正金銀行のシアトル支店長だった。もしかしたら弟を通じて澤田とカーネーションを知ったのかもしれない。また妹の政子は、当時駐米大使をしていた内田康哉の夫人である。彼らを通じてカーネーションの多くの品種を輸入していた。そして上大崎(目黒)に「菜花園」を興して、カーネーション栽培に取り組んだ。

土倉龍次郎の肖像画
土倉龍次郎の肖像画

 龍次郎は、露地栽培をめざした。当時は温室そのものが珍しい時代であり、農家がカーネーションをつくれるようになるには、温室が必要では負担が大きいと考えたからだ。最初からカーネーションによる農家の収入増をめざす意図があったと思われる。技術も秘密にすることなく、誰にでも教えたという。

 その後、多くの失敗を重ねながら栽培技術を磨き成功させる。そして独自の品種改良にも取り組んでいった。新たに生み出した品種は30近くもあった。なかには「ドグラス・スカーレット」「ドグラス・ファンシー」と自らの名を冠した品種もつくり上げている。

やがて大きな温室を建てて、多くの園丁を雇うほどになって発展させていく。

 32年に龍次郎の呼びかけで、大日本カーネーション協会が設立された。会長には龍次郎が就任し、当初の正会員は38人、普通会員10人だったとある。すでにカーネーション栽培はかなり広まっていたようである。34年には協会が主催で品評会も開いている。約200点の出展があったのだから、カーネーション人気も広がっていたのだろう。龍次郎も「カーネーションの研究」を出版した。これは今でもカーネーション栽培を語るのに欠かせない文献とされる。

 

カーネーションの研究
カーネーションの研究

 龍次郎は、38年に68歳で他界した。世田谷の自宅では、「カーネーション葬」が行われたという。カーネーションを日本に根付かせ、産業まで発展させた彼こそ、「カーネーションの父」と呼ぶべき人だろう。

 ただ土倉龍次郎を語るには、カーネーションだけでは納まらない。実は、以前にも紹介したことがある。それは「カルピスの父」としてであった。

 そこでも少し触れたが、龍次郎の父・土倉庄三郎は吉野林業中興の祖とも言われる吉野の山林王であり、龍次郎も前半生は台湾で一万町歩の森林経営と樟脳生産、そして水力発電所の設立計画……と多くの事業を手がけていた。台湾では「林業の父」「発電の父」でもあった。

 

 そんな実業家が後半生をカーネーションにかけたのだ。彼の栽培技術と品種改良の成功なくして、日本に「母の日のカーネーション」は根付かなかっただろう。

(文中の写真は、土倉家からの提供)