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ダウンタウンファミリーの原点『4時ですよーだ』はなぜ伝説の番組になったのか

田辺ユウキ芸能ライター
(写真:Splash/アフロ)

5月5日、バラエティ番組『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)にて「伝説のダウンタウンファミリー大集合SP」が放送され、司会をつとめるダウンタウンの浜田雅功と松本人志、そしてゲストで今田耕司、板尾創路、ほんこん、東野幸治、木村祐一が出演。

この7人が一堂に会したのは2012年開催のイベント『伝説の一日』以来、10年ぶりとのこと。そして、これまで共演した数々の番組でのエピソードを懐かしそうに振りかえった。

ダウンタウンの出世番組「大阪では夕方4時に街から人が消える」

ダウンタウンファミリーが出演していたテレビ番組のなかでも特に重要なのが、関西で放送されていた『4時ですよーだ』(毎日放送)である。

1987年4月から2年半、平日に公開生放送されていた同番組(のちに火曜日、金曜日は公開録画となった)。浜田雅功による「みんな、のってるかーい!」の掛け声がオープニングのお決まりで、そのタイミングに間に合わせるため、関西の学生たちは帰宅を急いだ。「部活動を辞める中高生が急増」「大阪では夕方4時に街から人が消える」と言われるほど、番組の人気は加熱した。

それにしてもなぜ、『4時ですよーだ』は伝説化したのか。

大崎洋が心斎橋筋2丁目劇場で掲げた「アンチ吉本、アンチ花月」

ポイントのひとつは、番組の会場となった大阪・心斎橋筋2丁目劇場の存在だ。

それまで主流だった吉本の劇場といえば、なんば花月など花月三館。昔ながらの演芸ファンが客層としては多く、伝統的な王道漫才が好まれていた。ダウンタウンのようにボソボソと喋り、「立ち話みたい」と言われるスタイルは当時真新しく、なかなか受け入れられなかった。浜田雅功も自著『がんさく』(2009年/幻冬舎よしもと文庫)で、「恐ろしいくらいにウケへんかった」「ウンともスンとも笑えへん」と花月の舞台に立っていた若手時代を振り返っていた。

そんななか、1986年5月に心斎橋筋2丁目劇場はオープンした。客席数はわずか112。同劇場のプロデューサーを任された大崎洋(現・吉本興業会長)は、吉本の伝統的なお笑いや漫才ブームにはなかったものをそこで生み出そうとした。そして大崎は「アンチ吉本、アンチ花月」を掲げて実験的なイベントを開催。その中心を担ったのがダウンタウンだった。

やがて、師匠を持った従来形の芸人たちが花月の舞台に立ち、ダウンタウンらNSC出身で師匠を持たない「ノーブランド芸人」たちは心斎橋筋2丁目劇場が主戦場となった。

ノーブランド芸人が活躍、「2丁目現象」が巻き起こる

書籍『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大崎洋物語』(2013年/幻冬舎)で、大崎はこのときのダウンタウンについて「二人の笑いはまだ『メジャー』ではない」としながら、しかし「間違いなく時代の最先端を行く笑いで、少し前なら『カウンターカルチャー』、当時の感覚なら『サブカルチャー』『トンガリ』などと呼ばれていた若者たちの文化に近い匂いも発散していた」と目を見張るものがあったという。

心斎橋筋2丁目劇場では、そんな彼らが枠組みやしきたりにとらわれず活動していた。新喜劇でもなく、王道漫才でもないお笑いの形が、新しいトレンドを求める若者たちを刺激したのだ。「2丁目現象」と報道されるなど、注目度がどんどん高まっていった。

『4時ですよーだ』は、そんな「2丁目現象」のなかでスタートした。第1回放送は明石家さんまがゲスト出演して視聴率も5パーセントを記録したが、以降は3パーセント前後で伸び悩んだ。それでも夏休みになるとメインターゲットの10代を視聴者に取り込んで10パーセントを超え、以降、夕方4時台としては異例の最高視聴率16パーセントを叩き出すまでになった。

浜田雅功は自著『読め!』(1995年/光文社)で、「4月から始まって夏場にはえらい盛り上がってもうて……。高校生・中学生が学校の帰りか、途中で抜けてくるんか、番組が始まる前には収録してた2丁目劇場に山ほど溜まってるようになった。やってる俺らの態度は(花月のときと)変わらへんのに、不思議なもんですわ」と述べている。

番組冒頭「女の子が騒ぐ声」をそのまま流したことが成功につながった

『4時ですよーだ』が伝説化したもうひとつの理由が、観客の熱である。テレビで観ていても、劇場内のテンションの高さが画面越しに毎日伝わってきていた。

書籍『上方放送お笑い史』(1999年/読売新聞社)には、番組冒頭のつかみにこだわったことが成功につながったと記載されている。

同書内で、毎日放送で当時ディレクターをつとめていた田中文夫は「ダウンタウンが出てくると、最初の三分間は女の子がキャーキャー騒いで何も聞こえない。普通こういう場面は茶の間に伝えないのですが、思いきってそのまま流したんです。これは何事か、いったい誰なんだ、とインパクトを与えたかったんです」と狙いについて話している。

確かに『4時ですよーだ』は、観客を含む素人出演者のおもしろさが鍵を握っていた。

たとえばコーナーでも、試験や面接に落ちた人を集めて誰が一番悲惨かを決める「落ちた人コンテスト」、素人がネタを披露する「かかってきなさい」、ふたりの赤ん坊がハイハイをしてどちらが早く母親のもとへたどり着くかを競う「母をたずねてハイハイ」、自分を普通だと言い張る奇抜な女性たちによる「フツーの女の子コンテスト」など、素人を巻きこみながら進行していった。

最終回まで残り2回となった1989年9月28日放送「永久保存版スペシャル」では、街の若者や、出前でお世話になったという食堂のスタッフなどいろんな素人がVTRで出演。上京するダウンタウンにエールをおくった。同回終盤には、番組を熱烈に応援するファンの女性が登場して手紙を読み上げ、浜田雅功がこらえきれずに号泣。一緒に涙を流す観客の表情や泣き声も放送された。あのときテレビで流れた生々しい悲しみは、筆者もいまだにはっきりと覚えている。

ちなみに最終回では、観客から「ありがとう」と声をかけられた松本人志がしゃがみこんで涙。ここまで感極まっているダウンタウンの姿を観たのは、後にも先にも『4時ですよーだ』だけである。

番組が伝説化した要因は、そうやって客席のファンもダウンタウンファミリーの一員として番組を盛り上げたからだ。番組を観覧するファンの気持ちが、テレビの視聴者にもちゃんと届いていた。平日夕方4時からの1時間は、その日、その場でしか出せない熱がテレビのなかから放たれていた。

浜田雅功、無名時代の今田耕司らについて「腕は確かですわ」

『4時ですよーだ』をリアルタイムで観ていたひとりとして、『ダウンタウンDX』で7人が揃ったのは本当に嬉しかった。

浜田雅功は書籍『がんさく』で、今田耕司、板尾創路、ほんこん、東野幸治、木村祐一について「最初に東京へ連れてきたころいうたら、それこそ無名もええところで、みんなにいわれてたもんや。『いったい、誰やねん、お前ら?』。でもはっきりいいます。腕は確かですわ。そらもう、大阪時代からボクらの番組にほうりこんで、何をどうすれば笑いがとれるか何年も見てきている子らなんやから」と語っている。

各方面で活躍し、それぞれビッグネームとなったダウンタウンファミリー。その原点が『4時ですよーだ』にある。

芸能ライター

大阪を拠点に芸能ライターとして活動。お笑い、テレビ、映像、音楽、アイドル、書籍などについて独自視点で取材&考察の記事を書いています。主な執筆メディアは、Yahoo!ニュース、Lmaga.jp、Real Sound、Surfvote、SPICE、ぴあ関西版、サイゾー、gooランキング、文春オンライン、週刊新潮、週刊女性PRIME、ほか。ご依頼は yuuking_3@yahoo.co.jp

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