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「400戦無敗」のヒクソン・グレイシーが、もっとも苦しんだ闘いとは?それは意外な試合だった。

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
最強伝説を築いたヒクソン・グレイシー。サンタモニカのビーチにて(写真:真崎貴夫)

ヒクソン・グレイシーから黒帯を授かった日本人が一人だけいる。

全日本柔術連盟の理事長で、『アクシス柔術アカデミー』の代表である渡辺孝真だ。

ブラジルで育った彼は、日本でヒクソンが試合を行う際にはセコンドにつき、試合後のインタビューでは幾度も通訳も務めている。ヒクソンとの親交は深い。そんな彼に尋ねたことがある。

ヒクソンの試合の中で、もっとも緊張感があったのは誰との闘いか、と。

渡辺は間を置かずに、こう答えた。

「高田(延彦)選手との2戦目ですね。セコンドについていて、あの試合が一番ドキドキしました」

22年前、東京ドーム『PRIDE.4』でのヒクソン・グレイシーvs.高田延彦。試合開始直前のレフェリーチェックをヒクソンのセコンド陣は不安げに見守っていた(写真:真崎貴夫)
22年前、東京ドーム『PRIDE.4』でのヒクソン・グレイシーvs.高田延彦。試合開始直前のレフェリーチェックをヒクソンのセコンド陣は不安げに見守っていた(写真:真崎貴夫)

試合の4カ月前に腰に激痛が

1998年10月11日、東京ドームで開催された『PRIDE.4』。この大会のメインエベントでヒクソンと高田の再戦は行われた。1ラウンド9分30秒、腕ひしぎ十字固め。ヒクソンは1年前の初対決時と同じ技で高田を返り討ちにする。完勝だった。

だが、リングに上がる過程でヒクソンは大苦戦を強いられていたのだ。

決戦の4カ月前、6月上旬のことだった。

道場で指導をしていた際に突然、腰に痛みを感じた。椎間板ヘルニアに見舞われたのである。腰の痛みは激しく、動くこともままならない日々が続いた。

当時、私はそのことに気づいていなかった。

詳しい話を聞いたのは、ヒクソンが現役を引退した後のことである。

ヒクソンは言った。

「プロフェッショナルのファイターは、リングに上がる時にはベストコンディションでなければならない。これは当然のことだと私は思っている。調整が上手くできないというのは恥ずかしいことだし、それは弱みにもなるから人に知られたくない。だから、ずっと口にしなかった。

でも、私はすでに現役を引退している。もう話してもいいだろう。

あれほどまでの痛みを腰に感じたことは、それまで一度もなかったから不安な気持ちになったよ。試合のキャンセルも考えたんだ。でも私はすでに(契約書に)サインをし終えていたから、やはりリングに上がらぬわけにはいかなかった。

それでスケジュールを変更して、闘いの3カ月前になってもトレーニングを開始せず腰を治すことに努めたんだ」

腰の状態は、試合の2カ月前になっても改善されなかった。

ヒクソンは焦った。「何とかしなければ」との思いで8月に故郷リオ・デ・ジャネイロに戻る。勝手知ったる地で、できる限りの治療を受けるためだった。カイロプラクティックをはじめ、知人から「良い治療法がある」と聞かされれば、そこに足を運んだ。

「どの治療法が効いたのか、実際のところ私にはわからない。さまざまなことを試したからね。でも、できる限りのことをやった甲斐があって腰の痛みが徐々に治まったんだ。9月に入った頃には、ほぼ普通の状態に戻ったよ」

思うようなトレーニングは積めていない。それでも腰に痛みは感じなくなった。

(これなら何とかなる)

そう思い、試合の1カ月前に成田行きの飛行機に乗った。

高田延彦につけ入る隙を与えず冷静に試合を進めたヒクソン。この後、マウントポジションを奪い腕ひしぎ十字固めを決める(写真:真崎貴夫)
高田延彦につけ入る隙を与えず冷静に試合を進めたヒクソン。この後、マウントポジションを奪い腕ひしぎ十字固めを決める(写真:真崎貴夫)

苦境の中での闘い、伝説を築く

ヒクソンは振り返る。

「試合までには、まだ1カ月あった。その間にできる限りのトレーニングをすればコンディションを整えられる。日本に着いた時に私はそう考えていた。でも、思うようにはいかなかった」

日本に着くとすぐに長野県の山中に籠った。ここで、闘いに向けての最終調整を行う。

その練習初日、トレーニングパートナーとスタンドで組み合った際に、ヒクソンの腰に再び激痛が走ったのだ。

トレーニングメニューは、すべて弟のホイラー・グレイシーが組んでいたが、それをスケジュール通りにこなせない状況が生じた。

ヒクソンとホイラーは話し合い、練習はやめて腰を治すことに専念することを決める。

「大丈夫だ。何とかする。俺が負けることは絶対にない」

決戦直前、東京ドームの控室で心配そうな表情を浮かべる仲間たちにヒクソンは和やかな口調で、そう言った。

そして、コンディションが良くないことを周囲に悟られることなく彼は試合に勝利。危機を脱して、悠然とリングを降りた。

「パーフェクトな状態からは程遠かったが、それでもリング上で闘っている時に腰に痛みを感じることはなかった。相手の動きをしっかりと見て、いま自分ができることを判断し冷静に闘うことができたよ。良い経験をさせてもらった」

勝利したヒクソン。ドーム内にはため息が漏れ、その後、静まり返った(写真:真崎貴夫)
勝利したヒクソン。ドーム内にはため息が漏れ、その後、静まり返った(写真:真崎貴夫)
闘い終えてインタビュースペースで報道陣からの質問に答えるヒクソン。この時、自らの体調については一切触れなかった(写真:SLAM JAM)
闘い終えてインタビュースペースで報道陣からの質問に答えるヒクソン。この時、自らの体調については一切触れなかった(写真:SLAM JAM)

この試合を私は、リングサイドに設置されたテレビ中継の放送席から解説をしながら見守った。

当時、ヒクソンは40歳を迎えようとしていた。ファイターとしての全盛期はとうに過ぎていることも理解していた。

それでも絶対的な強さを誇る彼にとって、高田とのリマッチはイージーファイトだったと思っていた。だが、そうではなかったのだ。

肉体の衰えを感じながら苦境の中で闘い、それでもヒクソンは「強靭なメンタル」を武器に勝ち続け、最強伝説を死守したのである。

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストとして独立。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『伝説のオリンピックランナー”いだてん”金栗四三』、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。

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