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シリア:ダマスカスは「世界で一番安い」街?

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 イギリスの『エコノミスト』誌が発表した2021年の世界の諸都市(173都市)の生活費ランキングは、様々な関心を呼んだ。大方の関心は上位の諸都市や日本の諸都市のランキングの変動であろうが、中東の諸都市について目を向けても興味深い情報が含まれている。特筆すべきは、最も生活費が高い街でイスラエルのテルアビブが2020年首位のパリ、シンガポール、香港を抜き去り、2020年の5位から首位へと浮上したことだ。テルアビブの首位獲得は、史上初めてとのことだ。また、最下位、つまり最も生活費が安いとされる街には、2020年に続いてシリアの首都ダマスカスがランクされた。さらに、イランの首都テヘランは2020年の79位から「急上昇」して29位に浮上した。

 このランキング、経済にはまるで門外漢の筆者にとっては、上位にランクされた都市が「いい街」であり、下位にランクされた都市が「悪い街」のようには思われないし、ほかにも「住みやすい街」ランキングなるものもあるようなので「生活費ランキング」はあくまで生活費の問題と考えるほかなさそうだ。その一方で、日ごろからシリアをはじめとする中東情勢を眺めている身としては、ダマスカスが「最も安い街」であるとの評価には少々疑問が残る。このような評価になる理由は、各都市の生活費がアメリカ・ドル建てで計算されているからのようだ。このため、テルアビブの首位浮上はイスラエルの通貨であるシュケルがドルに対して値上がりしたことの結果である一方、テヘランの「急浮上」はアメリカがイランに科す経済制裁のため、モノ不足と物価の高騰が起きたことに起因する。となると、ダマスカスが最下位にランクされているのも、紛争とそれに伴う経済の破壊に伴って暴落したシリア・ポンド(SP)の回復の兆しが見えないからであり、それがダマスカスの住民たちにとっての生活費の安さや暮らしやすさを意味するわけでは断じてない、ということになる。この点は、2020年‐2021年にかけて筆者も参加したグループがシリアで実施した世論調査で、シリア人民のドル換算での月収について、2017年に観察された若干の回復傾向が2020年‐2021年に「ぶち壊し」になり全体の約7割が無収入か月収50ドル以下と回答する惨状となったことでも確認できる。

 モノ不足や物価の高騰を解消して人民の生活水準を改善するには、なにがしかの産業を振興するよりほかないが、アメリカをはじめとする各国が科している経済制裁のため思うに任せない。シリア政府は、イランやロシアと経済委員会を開催し、必要な物資の調達や投資誘致に努めているが、イランやロシアもシリアに「タダで」お金や物資を与えるわけではないので、対価や見返りの元手を生み出すシリアからイラン・ロシアへ輸出可能な産品を見出すのは大変な苦労だ。また、2015年にシリアにおけるアル=カーイダであるヌスラ戦線に占拠されたことで機能を停止していた、シリアとヨルダンとの間の「フリーゾーン」(注:税制や手続き上の優遇措置が受けられる商工業地帯)の再開が発表されたことは多少明るいニュースだが、だからと言って「フリーゾーン」でどのような企業が操業し、どのようにして利益をシリア人民に還元できるのか、について確固たる見通しは立っていないように見える。

 現在、SPの対ドルレートは、公定レートで1ドル=約2500SPと、シリア紛争勃発前の50分の1に下落している。闇レートでは紛争勃発前の60分の1以下で取引されているようだ。また、シリア北西部のイドリブ県を中心とする「反体制派(実質的にシリアにおけるアル=カーイダ)」の占拠地域は、SP経済圏と切り離され、経済的にトルコに従属しているが、こちらも昨今のトルコ通貨の下落により経済危機が深刻化しているようだ。近頃目立った動きもなく、報道場裏では忘れ去られているシリア紛争ではあるが、紛争は継続中であり、それに伴って発生した経済危機は相変わらずシリア人民の生活を蝕み続けているということだ。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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