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イスラエルがシリアの新型コロナウイルスワクチン購入代金を肩代わり(したかも)

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(提供:SANA/ロイター/アフロ)

 2021年2月17日、数週間前にゴラン高原被占領地からシリアに侵入してシリア側に拘束されたイスラエルの女性と、イスラエルの刑務所に収監されていたシリア人数人とが交換・釈放された。釈放されたシリア人の中には、ゴラン高原被占領地の反占領運動に参加して逮捕された者も含まれる。今般の捕虜交換は、ロシアの仲介によって実現したものだそうだ。シリアとイスラエルとの関係は、現在イスラエルが政治・経済・軍事的に圧倒的な優位に立ち、一方的にシリアをぶちのめしているだけにも見える。他方、両者の間ではときおり今般の捕虜交換のように、様々なヒトやモノが交換されることがある。ゴラン高原被占領地での反占領運動や、その他さまざまな機会でイスラエルに逮捕された自国民を解放し帰宅させるのは、シリア政府にとって得点になる。また、イスラエルにとっては、今般のような生存している人物に限らず、過去のシリア・レバノン等の抗争での死者・行方不明者の身柄・遺体や消息情報が、なんとしてでも手に入れたいものとなる。そのようなわけで、両者が何かを交換することそのものは、日々のニュースを観察する中で極めて珍しいというわけではない。

 ただし、今般の捕虜交換については、交換が行われた直後から双方が囚人の解放以外に密約を結んだとの報道が現れ、その密約の内容が世相を反映した興味深いものだった。報道によると、イスラエルがロシアに対しシリアに供給するための中国発の新型コロナウイルスのワクチン代金を支払うというのがその密約の内容で、イスラエルが支払ったとされる代金は120万ドルだ。この密約説について、シリア側は「占領者に囚われた人民を解放しようとする行為を貶めるための虚報」として否定、イスラエルのネタニヤフ首相も、含みのある言い方ではあったがシリアにワクチンを提供したことを否定した。

 シリアにおいても新型コロナウイルスの蔓延は深刻で、首相経験者などの著名人もこれが原因で死亡している。さらに、現在シリア領は政府の制圧地、イスラーム過激派(「反体制派」ということになっている)の占拠地、トルコによる占領地、アメリカ軍とその配下の「シリア民主軍」の占拠地に分割され、各々統治、情報取りまとめ・国際的な援助の引き受けの主体が異なっている。その結果、シリア・アラブ共和国の領内で毎日何人が感染したり死亡したりしているのかを把握するのが難しくなっている。そのような状況の下、収容者・居住者がちゃんと掌握できているのかよくわからない難民・避難民のキャンプや「イスラーム国」容疑者の収容施設が多数ある。ここに、紛争とアメリカをはじめとする諸国による経済制裁に起因する人民の生活水準と公共サービスの著しい低下の悪影響が加わる。このような事情で、シリアにおけるワクチンの接種の見通しは、非常に悲観的である。ワクチン調達についても、在シリア中国大使館が15万回分を提供する意向を表明したくらいで、さしたる進展がない。

 今般の報道について重要なのは、密約の有無やその真偽ではない。重要なのは、新型コロナウイルスのワクチンを、誰からどのように調達するのか、必要な資金をどう融通するのかが、各国の内政・外交上重要な問題となっていることだ。ワクチン接種の機会平等という理想とは裏腹に、新型コロナウイルスのワクチンは外交・安全保障・国際関係上の立派な道具となってしまった。どのような場面でどのような技術や物資が「武器」となりうるのかを見極め、必要な分野に適切に資源を費やし続けることができるかが、各国政府だけでなく様々な研究分野の専門家たちの課題である。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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