シーキングザパールが日本調教馬・初の海外GI制覇を果たした瞬間/ウマ娘史実シリーズ
20日、人気ゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」に育成馬として実装されたシーキングザパール。彼女は1998年夏にフランス・ドーヴィル競馬場で行われたモーリス・ド・ギース賞(GI、芝1300m)を制し、日本調教馬による初の海外GI制覇を達成している。
今回はその当時、筆者がNumberで書いた原稿を一部加筆修正し、掲載する。
武豊騎手「夢がまたひとつ、叶いました」
量子夫人は到着早々、真珠のイヤリングをなくしたそうだ。いくら探しても見つからない。だが彼女は、かわりに瞳から零れ落ちる大きな真珠を手に入れた。贈り主はもちろん、記録を塗り替えるのが大好きなご主人、そしてシーキングザパールだった。
「夢がまたひとつ、叶いました」
武豊騎手はモーリス・ド・ギース賞を制し、史上初の日本調教馬海外GI制覇を果たした。デビュー3年目の20歳、アメリカのアーリントン競馬場で初めての海外遠征、初勝利。それから9年を経た20代最後の夏、日本ではスペシャルウィークでダービー初制覇、そして海外でこの偉業を達成した。
モーリス・ド・ギース賞は1994年にGIに昇格したばかりのレースであった。欧州マイル戦線は11日前にサセックスS(英GI、芝1600m)、翌週にジャック・ル・マロワ賞がある。特にジャック・ル・マロワ賞は日本のタイキシャトルも参戦予定である。こういった事情からこの年のモーリス・ド・ギース賞は一流マイラーの参戦はなく、メンバー構成は生粋のスプリンターが中心であった。前年の覇者であるオキュパンディストが直前に出走を見送るなど、有力馬の出走回避もシーキングザパールにとってはラッキーであった。
中間の調整もうまくいった。陣営はモーリス・ド・ギース賞が行われたドーヴィル競馬場のあるフランスではなく、海を渡ったイギリスのニューマーケットのジェフリー・ラッグ厩舎に陣を構えた。そして、サイドヒルズのウッドチップコースを使い、終始、シーキングザパール1頭だけでトレーニングを続けた。
「厩舎の群れの中に入れることも考えた。でも、馬房が1頭だけ離れた場所にあったし、調教中だけ集団行動させたらかえって寂しい思いをさせるのでは、と。考えた末、調教も1頭だけで行うことにしたんです。」(森厩舎・大久保諭助手)
勝因のひとつは、日本での生活をイギリスで再現できたこと
シーキングザパールにとってラッキーだったのは、ニューマーケットに居ながら栗東トレセンで日々こなしてきた調教メニューとほぼ同じ環境をつくれたことだ。蹄鉄形の調教コースは2000m。そのうち、200~1000mの地点が坂になっている。シーキングザパールの滞在する厩舎から調教コースにたどり着くまでの時間は約30分。運動時間も追い切りコースも、栗東トレセンとよく似ていた。さらに、日本流に工夫したのは調教タイムの計測だった。広大なニューマーケットでは調教タイムを計測する習慣がない。しかし、陣営はスタッフが1ハロンごとに合図を出して独自に調教タイムを計測したのだ。これにより、ニューマーケットでさらに"日本流"を再現することができた。モーリス・ド・ギース賞の直前の追い切りは1000mを35秒台でこなしたのだが、このように調教タイムを数値で確認することで陣営は安心感を得てギリギリまで仕上げることができたのだ。
レース当日、ドーヴィル競馬場の馬場もシーキングザパールの味方をした。フランスの競馬場は芝丈が長く、コースの含水率も高い。陣営はそれも十分に覚悟してのチャレンジだった。しかし、当日になってみると、状況は大きく違った。芝は短く刈られ、地は硬い。
「今年のドーヴィルは札幌や函館と大差ない(ほど、適度な硬さを保っている)。こんな馬場は初めて」と武豊騎手も驚くほどの馬場コンディションだったのだ。
となれば、当然に持ち時計が優秀な馬にとって有利になる。
このように、たくさんの要素がシーキングザパールにとって理想的だった。モーリス・ド・ギース賞の走破タイムは1分14秒7だったが、それまでの記録を0.5秒も縮めるレコードタイムだった。ゴール前400mで大勢が決したほどの完勝だったのだから。
この勝利で"YUTAKA TAKE"の名はフランスでさらに有名になった。地元紙は何度となく武豊騎手の特集を組み、フランス国内で最も古い日刊紙であるフィガロにも紹介されたほどだ。
日本でもシーキングザパールの勝利をNHKのニュースで放送したと聞いた。
翌週のジャック・ル・マロワ賞にタイキシャトルが日本調教馬、初の海外GI制覇を成し遂げるであろうという下馬評を覆した。日本のスーパースターである武豊が、改めて世界にその名をしらしめた瞬間でもあった。
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