タイキシャトルを偲ぶ 当時の現地取得の資料からウマ娘、献花台まで/ウマ娘史実シリーズ
8月17日、タイキシャトルが老衰のため、繋養先の牧場で亡くなった。朝に馬房で倒れ、目を覚ますことなく息を引き取っていたそうだ。
通算成績13戦11勝。1998年の年度代表馬であり、JRA顕彰馬。GIはJRAで4勝、フランスで1勝の計5勝。どのレースも大きく崩れることなく、コンスタントに勝ち星を積み上げた日本競馬史に残る歴史的な名マイラーだった。
そんな名馬タイキシャトルを当時の資料を読み返しながら偲びたい。
銀紙に名前も入らない応援馬券
まずはこちら。ジャック・ル・マロワ賞のレーシングプログラム。およそ、縦幅はB5、横幅はA4の2分の1くらい。美術館のリーフレットを思わせるカラフルなつくりだ。
1998年のジャック・ル・マロワ賞は当初9頭立てであったが、馬番8のザライカが取り消したため8頭立てとなった。次のページには武豊騎手騎乗のミスバーバーが載っている。
ジャック・ル・マロワ賞の馬券だが、当時の通貨はまだフラン。私は応援馬券で単複を50フランずつ買った。下の写真が馬券の現物だ。
単勝はGagnant(ガニャン)と呼ばれ、略称は「G」。複勝はPlacé(プラッセ)で略称は「P」だ。フランスの複勝も7頭立てまでは2着まで、8頭立て以上は3着までが当たり。印字された2列目の中央に「6*」とあるが、これが馬番が6のタイキシャトルを示している。
タイキシャトルが勝ったこの馬券は当然に当たりだし、馬名も入らずに詳細を説明しないと何の紙切れなのかもわからない。それだけに、フィルムケースに丸めてしまい込んでいたままで見返すこともなかったが…。
タイキシャトルが亡くなり、こうやって取り出し見ていると感慨深いものがある。フランスの通貨も変わり、銀紙にドットプリンターで印字された、このそっけない馬券がなんとも歴史を感じさせるし、今となっては逆に味わいすら感じさせる。
タイキシャトルは終始ダントツの1番人気で最後は1.3倍に落ち着いたのだが、発走の10分前は1.1倍にまでなったほどだった。当時は日本での馬券発売もなく、ドーヴィルは首都パリから数時間ほど離れたリゾート地。それでも、タイキシャトルの雄姿と単勝馬券を求めて駆け付けたファンはいた。
前走、モーリス・ド・ギース賞(GI)を制して日本調教馬初の海外GI制覇をなしたシーキングザパールよりも強い。そんな下馬評もあり、タイキシャトルへの注目は日本だけでなく現地でもすさまじかった。
それでも、タイキシャトルはまったく動じず、滞在中も実にリラックスした様子でカイバも普通に食べ、日々の調教に挑んでいた。あまりに落ち着きすぎていたため、陣営は予定されているジャック・ル・マロワ賞の前にフランスでひと叩きしたほうがいいのではないか?と検討したほどだ。
タイキシャトルが優勝した翌日、フランスの競馬専門紙「パリチュルフ」もイギリスの競馬専門紙「レーシングポスト」もその勝利を一面で報じた。前週のシーキングザパールの優勝とともに、日本馬の強さを称えると当時に、欧州勢が自国のGIを勝てなかった悔しさが滲み出る紙面であった。
■1998年マイルチャンピオンシップ(GI) 優勝馬タイキシャトル
時は過ぎ、20世紀の名馬の記憶が遠いものとなっていたが、2021年に登場した人気ゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」のおかげでタイキシャトルの名は再び世間で注目を浴びることになった。
外国生まれの肉感的な体を駆使し、安定した様子で勝ち星を積み重ねる。その様子から実馬・タイキシャトルを鮮明に思い出したのは筆者だけではないはずだ。
女性に擬人化されたことで違和感を唱える声も聞くが、遠い記憶を呼び覚ましただけでなく、種牡馬も卒業して老馬となったタイキシャトルを新たに敬愛する人々が増えたことはひじょうに良い現象だったのではないか、と考える。
その証拠に、各競馬場に急遽設置された献花台には多くの、さまざまな年代のファンが押し寄せ、タイキシャトルに哀悼の意をささげているという。
JRAは8月20日から9月4日のあいだ、献花台はJRAの競馬場と東京競馬場内にある競馬博物館、記帳台はJ-PLACEを除くウインズ(ウインズ浦和は期間中の日曜のみ実施)に設置すると発表した。特に競馬博物館については、期間中の開館日に訪れることができるし、来館と同時に多くの展示も見れるのでお勧めだ。
世界の扉を開き、日本調教馬の強さを伝統の地で知らしめたタイキシャトルがいたからこそ、あの希望と未来に満ちた瞬間があった。どうぞ、安らかに。合掌。