「自由と自己責任」という嘘〜成果主義のうさんくささはどこから来るのか〜

自由のようでいて、実は自由ではない(写真:アフロ)

■「自由」とは「脅迫」である

リクルートの昔の新卒採用広報で「自由に生きなさいという脅迫に負けるな」というコピーがありました。現代の民主主義万歳の世の中では「自由」は最高価値に等しい扱いを受けており、「自由にしていいよ」と言われることは喜ばしいことのはずです。

それが「脅迫」になるというところが、私には一瞬意外でした。ですが、よくよく考えてみると、確かに「脅迫」とも言えると思えて納得した記憶があります。

■思えば、バブル崩壊後ぐらいから人事領域でも言われ始めた

「自由にしなさい」は言い方を変えれば「勝手にしろ」ということであり、さらに言えば「勝手にしたらいいけど、お前がどうなろうとも俺は知らないからな。自分で自分の責任は取りなさい」というメッセージが大抵の場合含まれています。

バブル崩壊後に成果主義が大はやりだった時代、この「自由と自己責任」論は人事の世界でもよく言われていました。自由には自己責任が伴うと。

確かに、誰かに指図されてした行動の責任は、行為者ではなく指示者に責任があるでしょう。しかし、自由で何からも束縛を受けない中、自分で自発的に行った行為については自分が責任を取らなくてはいけない、ということです。

■「面倒をみきれなくなった」から自由にという流れ

バブル以前までは会社が社員の生き方や働き方を今よりも指示してきました。だからその通りに動けば後は面倒をみてやるということでした。

しかし、現在では会社も社員に「正しい」方向を示すことができなくなってきました。だから、これまでと違って、「もう社員の皆さんを束縛することはせず自由にさせてあげるから、その代わり面倒も見ないからね。成果だけ見て報いることにするから、個々人でそれぞれ頑張ってね」みたいなことになってしまったのです。

■本当の「自由」など無い

しかし、そもそも、何からも指示や束縛を受けない行動があるものでしょうか。

いや、そんなものはおそらく無いでしょう。

生まれ落ちた環境、持っていた才能や容貌、周りにいる人々の状況、本能のような動物としての人間が予めプログラミングされた性質、そういったものはある個人の意思の枠外にあることであり、(少なくとも初期条件としては)どうにもならないものです。

しかし、そういうものに個人の行動は強い影響を受けています。それなのに、人は自分の行動やそれに伴った成果の責任を自分だけで取らなくてはならないのでしょうか。

■優秀な人は「自由と自己責任」論が好き

成果主義にシンパシーを抱く人は、まずおそらく優秀な人で、その優秀さは自分個人の意思や努力によって培われたものと思っていることが多いのではないでしょうか。人は、良い結果は自分のおかげ、悪い結果は他人のせいと思う心理的バイアスがあるものです。

しかし、例えば仕事や勉強を頑張れる、努力できるといった才能も自分からではなく、両親の性格や教育環境などの外側から与えられたものから発生しているとしたら、彼らの優秀さは完全に彼ら個人のものと言えるでしょうか。

■自分で自分の行為を完全に制御できるわけではない

いつも例に出す話で恐縮ですが(好きなのです)、歎異抄で、親鸞が自分を信奉する弟子が「何でもします」と言うので、「なら100人殺してこい」みたいな、ちょっとイケズなことを言うのですが、もちろん弟子は「できません」と言います。そこで親鸞は「自分で何でもできるものではない。戒めよ」みたいなことを言います。

そこまでなら単なるイケズな気もするが、そのあと「人の行為は様々な因縁によって定められるもの。逆に、1人も殺すまいと思っていても、何百人も殺さざるを得ないような状況に追い込まれる人もいる」というようなことを言ったわけです。さすが、悪人正機の親鸞上人です。

■空気を読んで、その場に合わせて、自分の役割を決める日本人

いろんな人がいろんなことをいろんなところで毎日しでかしていますが、それらはけして自由意思で勝手に動いているのではなく、大きな流れの中で個々の役割に応じて衝き動かされている、と私には思えます。

特に、ジョブを決めずに無限定で採用され、その場に応じて空気を読んで、役割意識を発揮して、自分がすることをせよと育成されてきた日本人は特にそうでしょう。

■誰でもどうにかなってしまう可能性がある

様々な事件の報道を見ていても、あんなことをしてしまったのには窺い知れない深いわけがいろいろあり、どうしようもなかったのだろうと思えて、とても声高に非難するような気持ちにはなれません。

私は自分も「悪人」であるという意識もあり「罪」ということ全般に関して、あまり厳しくなれないようです。みんな誰だってああなっていた可能性があるのと思うのです。

そんな風なことを考えていると、「自由にさせてやるから自己責任ね」と言うのには、やはり違和感を持ってしまいます。冒頭のコピーを書いた方も、もしかしたらそんな気持ちがあったのではないでしょうか。

■成果主義のうさんくささ

しかし、では、どうすればよいのかというのは難しい問題です。完全な自由というのがありえないのですから、自己責任もありえないというのは、抽象的な理屈の世界では成立するかもしれません。

だが実際にそれをベースに社会を運営すれば、どんな犯罪も個々人「無罪」であり、社会全体だけが「有罪」ということになります。そんな社会は今よりも治安のよい社会でしょうか。おそらくそんなことはないでしょう。

ですから、「自由と自己責任」というのは嘘っぽい原則であるとは思いながらも、会社を含めた現実世界においては私自身も採用せざるをえないでいる。いや、採用しなければ私自身が社会で生きていけないことでしょう。

人事制度で成果主義を導入する場合も同じです。ある人が出した成果は、本当にその人だけのおかげでしょうか。違うでしょう。しかし、違うのはわかっても、では、どういう因果関係でその人が良い成果を出せたのかはわからない。だから「便宜的に」成果主義で評価しているだけのことなのです。

■経営や人事は「ゆるく」あるべきだ

以上のような理由から、もし、会社にある程度余裕が限りは、できるだけ「自由と自己責任」などという冷たい(しかも厳密には正しくもない)原則を採らずに、自分と他人とはいつも何かどこかでいろいろつながっており、双方とも何か大きなものの一部であるという意識で経営をしたり人事評価を行ったりすべきではないかと思います。

人事制度を作る際には、とにかく厳密さとか明確さを求める人はとても多いのですが、それは単純に人は曖昧だと不安になるからというだけのことのような気がします。その不安を抑えるために、正しくもない厳密さを導入するのは余計問題が起こります。人事制度はある程度「ゆるく」あるべきなのです。

世の中に自分と関係ないことなどありません。人は生きている以上、誰かに影響を与えずにはいられませんし、誰かの影響を受けずにはいられません。

今の幸運な自分は、様々な要因の相互作用で出来上がった結果に過ぎず、今の不幸な誰かは、明日の我が身かもしれないのですから。