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タバコから考える 大麻の望ましい規制は?

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
(写真:イメージマート)

 タバコは、ニコチンによるその心因的効果とそこから得られる快感のためにだけ求められる娯楽用薬物(レクリエーション・ドラッグ)である。もちろん日本では成人なら自由に入手可能であり、喫煙の量についても法で規制されることはない。

 しかし、タバコは健康に悪影響を与え、タバコの健康に対する有害性を示す証拠は今も世界中で蓄積され続けている。タバコは、身体のほぼすべての臓器にダメージを与え、多くの病気を引き起こすといわれている。

  • タバコがヨーロッパから日本に渡ってきたのは16~17世紀頃だった。幕府は、タバコの健康上の理由よりは、火災原因という点から何度か禁令を出したが効果がなく、またたく間に日本人にとってなくてはならない嗜好品となった。刻みタバコをキセルで吸う独特の風習や、武士や町人、博徒など、身分によってキセルの持ち方が微妙に異なり、キセルは歌舞伎や浮世絵、落語や講談などで欠かすことができない道具となっていった。

 長らく続いた喫煙の習慣だが、現在は、受動喫煙の防止を目指す健康増進法(2020年)によって大きく制限されている。

 受動喫煙は、累積的に生活環境を間違いなく悪化させ、人びとの健康に対して悪影響を与えるという点にその問題性がある。しかし、個々の喫煙を取り上げると、単独では公衆の生命や健康に対する抽象的な危険すら認められないような行為であり、非喫煙者にとっては単に不快な行為でしかない。公衆の生命や健康などに対する抽象的危険すら認められないような行為を刑罰で規制するとなると、それが不快だという理由で処罰することになりかねず、刑罰の基本的な原則に反するおそれがある。

 このような観点からいえば、愛煙家を刑罰を科すべき〈犯罪者〉だとすることは間違いで、行政罰である過料秩序罰)で対応することが妥当である。過料とは、たとえば各種の届出義務に違反した場合に徴収される金銭的制裁であり、刑法でいう刑罰ではない。健康増進法も同様の考えであり、喫煙は個人が嗜(たしな)む分には基本的に自由だが、多くの人がいる施設や鉄道、飲食店などでは原則屋内禁煙となり、違反した者は最高で30万円の過料に処せられることになっている。

 さて、そうなると、タバコよりも健康被害のプロファイルが少ない(と主に欧米で言われている)大麻はどうなるのかという問題がある。

 わが国の司法の場で大麻の有害性が争われ出したのは、1965年頃(昭和40年代)からであるが、1985年に最高裁は大麻の有害性を肯定している((1)最高裁昭和60年9月10日決定、(2)最高裁昭和60年9月27日決定)。(1)決定では、大麻の有害性が「公知の事実」だとした原審の判断が肯定され、(2)決定では、大麻の有害性は法廷で証明不要な「立法事実」だとした原審の判断が肯定されている。これらの司法判断は、30年以上前の議論を前提にしており、その後の医学研究の深化を思うとき、大麻の有害性は改めて問い直されるべきだ。司法の場では大麻の有害性の議論は止まっており、思考停止の状態が続いている。

 かりに大麻が健康に有害だとしても、それに懲罰でのぞむ不寛容(ゼロ・トレランス)な政策は当然の反応ではない。かつて薬物問題は主として個人の問題だったが、20世紀の後半になって、とくにアメリカの影響から古典的な懲罰的薬物統制の時代が始まったのであった。

 懲罰的アプローチを支えるのは、薬物乱用者に厳しい罰を与え懲らしめることこそが、薬物依存者に薬物使用を止めさせ、社会の薬物流通を抑止するという理論である。そして、薬物に手を出す者は、人生という貴重な代償を払ってまでも罪深い快楽を得たいと願う、道徳的逸脱者として描かれてきた。さまざまなメディアを通じて、薬物の危険性、反薬物キャンペーンが繰り返されて、懲罰的アプローチが国民の支持を得てきたのである。自己使用目的での少量の大麻所持であっても、退学や失職などの社会的制裁が肯定されてきた。

 そもそも薬物の概念は、歴史的には医学的問題である以前に、社会的、政治的な次元で構築と解体のサイクルを経験してきた。長い間常用されてきた化学物質が、政治的、社会的、文化的な背景によって、突然、限られた治療用途を超えて規制され、違法とされることがある。大麻は、アメリカ全体では1937年まで、また日本では(印度大麻はそれ以前から規制されていたが)1948年まで合法であった。

 ところが、この20年ほどで大麻規制の考え方に大きな変化がみられる。

 その根底には大麻に関する医学的研究の深まりがあって、大麻に対して懲罰で対応することは間違いだったとの強い反省がある。これはまさに生命や健康について抽象的危険すら認められないような行為に、単に不快だという理由で刑罰を科すことは間違いだという考えである。

  • 個人使用のための大麻の無許可所持は、EU諸国の法律では規定上様々な制裁措置の対象となっているが、これらのすべてが自由刑をオプションとして組んでいるわけではなく、全体としては2000年頃から自由刑を減らす傾向にあり、少量の大麻所持が事実上処罰されない実務が続いてきた。
  • ドイツでは、すでに1994年の連邦最高裁判決で、7.5グラムまでの大麻所持は(不処罰の)「少量」に当たるとされて刑事手続きを終了させてきた。2015年には「同盟90」と「緑の党」の議会グループによって、30gまでの大麻または3本の雌株の栽培・所持を合法化する法案が連邦議会に提出されたが、法律化はなされなかった。しかし今年、与党は今後4年以内に法律を成立させることに合意した。

 ところが日本では、大麻に対する懲罰的な対応は薬物乱用や過剰摂取の抑止につながるという仮説に疑問があるにもかかわらず、また欧米が懲罰的アプローチから脱却しようとしているにもかかわらず、いまだに根強い信頼を保っている。自己使用目的での少量の大麻所持であっても厳しく処罰してきたし、さらに現在は大麻取締法に処罰規定が存在しない「大麻使用罪」を新たに創設すべきだという動きもある。

 歴史的な背景は異なるが、薬物の影響だけに焦点を当てると、現在のタバコに対する規制の構造は、大麻の扱いを議論する場合に好例となる。つまり、次のような規制の方向が望ましいと思われる。

  1. 大麻喫煙および自己使用のための所持は原則自由とする。
  2. 路上や公衆が集う場所での大麻喫煙を規制する。
  3. 営利目的での大麻栽培や販売は許可制とし、違法な流通を規制する。
  4. 未成年者への提供は厳罰に処する。

 タバコを原則合法としたまま、大麻を〈犯罪〉とし続ける合理的な理由を組み立てるのは困難だと思われるのである。

 なお、次の2点を補足しておきたい。

 第一は、大麻が薬物犯罪に対するゲートウエイ(入り口)かどうかは議論のあるところだが、未成年の大麻使用を問題にするなら、なぜ未成年に対して大麻を売っている者の存在を問題にしないのか? 大麻使用罪の創設が未成年の大麻問題解決にとって重要だとの意見があるが、なぜ大麻に対する懲罰的アプローチをとり続け、大麻を使用した未成年者を刑事司法のレールに乗せて、未成年者を「薬物事犯」(犯罪者)として処罰することが重要なのか?

 第二に、機能障害の可能性に関しては、大麻はアルコールと似たようなプロファイルを持っている。タバコはほとんど障害を引き起こさないが、大麻はアルコールのように使用者の運動能力を低下させるおそれがあり、自動車運転などの活動を危険なものにする可能性がある。したがって、これに関しては、別途規制が必要だと思われる。(了)

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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