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薬物戦争の始まりー『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』ー

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」(2021)(写真:Splash/アフロ)

■はじめに

 先日、話題の『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』(The United States vs. Billie Holiday)を観ました。これは、ヨハン・ハリ著『麻薬と人間 100年の物語』(原題:Cahsing the Scream、作品社・2021年)のビリー・ホリデイを中心に書かれた第一部を映画化した作品です。

 映画じたいはもちろん素晴らしく、とくに映画初主演のアンドラ・デイの演技は、まるで生きているビリー・ホリデイを見ているようでした。「アンドラ・デイ」という名前は、彼女がビリー・ホリデイへのオマージュとして選んだということです。

 この映画では、アメリカにおける薬物戦争初期の物語が描かれていますが、当時の社会的背景についての情報があれば映画をより楽しめると思いますので、簡単にまとめてみました。

■20世紀初めのアメリカは薬物の自由放任だった

 ヘロインやコカイン、マリファナなどの薬物は、20世紀初頭までアメリカではまったく合法でした。当時は、アメリカの成人のうちで2~5%が薬物依存症だったと言われています。

 原因の一つは南北戦争(1861-1865)で、負傷した兵士にモルヒネが多用されたことによって、戦争後もモルヒネの常用者がかなり増え、「兵士の病」と呼ばれていました。また、その頃、偏頭痛や不眠症、生理痛などによく効く鎮痛薬がとくに家庭の主婦の間で流行りますが、そこにもモルヒネが含まれていました。

 みんながよく飲んでいた清涼飲料水にコカインが入っていたことは有名ですが、爆発的に売れた「ウィンスロー夫人の心地よいシロップ」(Mrs.Winslow's Soothing Syrup)という製品は、母親が歯が生えかけてむずがる乳児を落ち着かせるために飲ませた、モルヒネ入りのシロップでした。

上記サイトより
上記サイトより

 政府は、20世紀初頭あたりからようやく薬物依存が重大な社会問題だと気づき始めました。

■薬物規制政策と法律

 まず、1906年に純正食品薬品法が制定されます。これは、当時は食品に危険な防腐剤が使われることが多く、薬品には治療効果の疑わしい物質や依存物質が多用されていたので、食品や薬品に含まれている成分を正確に表示することを義務づけ、それらの流通を規制することが目的でした。コカインやヘロイン、マリファナなどはまだ禁止薬物ではありません。

 薬物の非医療的使用が犯罪化されたのは、1914年のハリソン税法です。ここで初めてアヘンとモルヒネ、コカインが規制されました(マリファナはまだ規制対象外)。ただし、この法律は税法であって、アヘン等の製造や流通、販売や処方などに携わる者にライセンス要件を課し、多額の納税義務を課しました。そして、違反者を脱税の罪として摘発したのです。この法律が成立したすぐ後で、ビリー・ホリデイが生まれています。

 マリファナを正面から規制したのは、1937年のマリファナ課税法です(ただし、州法では1933年までに17の州で禁止されていました)。これもハリソン税法と同じく、マリファナの流通に課税しました。なお、この法律が日本の大麻取締法の母法となりました。

■ジム・クロウの時代

 ジム・クロウとは、1870年代から1960年代にかけてアメリカ南部全体で人種分離を強制するために、南部の白人によって作られた法律(人種隔離政策)です。

 「白のみ」(whites only)と「色つき」(colored)の標識が、公園、トイレ、バス、映画館、レストラン、プール、公立学校などに掲げられました。これにあえて異を唱える黒人は、容赦のない報復に直面しました。とくにリンチを行ったのが、クー・クラックス・クラン(KKK)と呼ばれる、白人至上主義のテロリスト集団でした。

 KKKは3つの時代に存在してきました。

 最初のKKKは、南北戦争による奴隷制システム崩壊後の「リコンストラクション」(再建)の時代(南北戦争から1877年頃まで)に結成されました。南部で多くの支部が組織され、とくにアフリカ系アメリカ人の指導者に対する脅迫と的を絞った暴力が実行されました。

 2番目のKKKは1915年にジョージアで始まり、中西部と西部の都市部に広がりました。地元のプロテスタント・コミュニティに根ざし、白人至上主義と禁酒法を維持してカトリック教徒とユダヤ教徒を攻撃しました。映画の中で、黒人へのリンチが行われ、燃やされた十字架がクローズアップされるシーンがありますが、それはこの頃の話です(3番目のKKKは、1950年代以降、公民権運動への反対を標榜し、暴力を使って活動家を抑圧しました)。

 ビリー・ホリデイが歌う「奇妙な果実」(Strange Fruit)とは、〈リンチを受けて木に吊された黒人が奇妙な果実のように見える〉という、人種差別を糾弾する歌です。彼女が最初にこの曲を唄ったのは、1939年、グリニッチ・ビレッジにあるナイトクラブ「カフェ・ソサエティ」で、〈唄い出す瞬間はウェイターはサービスを中断し、照明はすべて落とされ、スポットライトだけステージの彼女を照らし出す。アンコールはなし〉、がいつもの決まりでした。次の動画で、彼女のライブ映像を観ることができます。これは、彼女がこの曲を唄っている唯一の現存する映像作品で、1959年2月25日に収録されたものです。

■ジャズ・ミュージシャンと薬物

 ニューオリンズでジャズが生まれたと言われています。

 フランス統治時代の退廃的雰囲気を残した街、キャバレーやダンスホール、娼婦やギャンブラー。いかがわしくも、あらゆるものを飲み込むこの街は、新しい音楽を生み出す理想的な街でもありました。

 奴隷から解放された黒人たちは、南北戦争後に叩き売られていた軍楽隊の楽器を手にし、見よう見まねで鳴らし始めました。ここからジャズが生まれました。

当時の様子がうかがえる動画

 ミュージシャンの多くは赤線地帯(ストーリーヴィル)で生活し、働きました。そこはドラッグが生活の一部で、娼婦たちは何十年も前から、過酷な仕事に耐えるためと、避妊のためにアヘンを使用していました。

 黒人ジャズ・ミュージシャンたちは、アルコールは感覚を鈍らせ、アヘンは眠らせてしまうので避けていましたが、マリファナは注意力を持続させ、疲労を防ぎ、聴力を高めると言われていました。こうしてジャズやブルースは、マリファナの力を借りて進化していきました。

 ところが、第一次世界大戦(1914-1918)の最中、ニューオリンズ近郊に軍の基地があり、兵士の性病感染を怖れた政府は、1917年にストーリーヴィルを強制的に閉鎖したのです。職を失った黒人ミュージシャンたちは、仕事を求めてミシシッピー川を北上し、ジャズとブルースも彼らと一緒に移動しました。カンザスシティやシカゴ、そしてニューヨークがジャズの中心になりました。薬物もジャズとともに広がっていきました。

■キャバレー・カード

 映画の中でビリー・ホリデイがヘロインの購入で有罪となり、1948年に釈放された後、彼女のキャバレー・カードの更新が拒否されるシーンが出てきます。

 キャバレー・カードとは、1940年から1967年まで、クラブやバーの出演に必要だったライセンスのことです。NY市警はこのカードを使って黒人のジャズ・ミュージシャンをコントロールしました。

 次の動画では、ジャズ・ベーシストのクリスチャン・マクブライドが、この悪名高いキャバレー・カードについて解説しています。

Cabaret Cards: The Law Police Used To Keep Musicians Of Color Off Stage | JAZZ NIGHT IN AMERICA - YouTube

 キャバレー・カードを失うと、ジャズ・ミュージシャンはニューヨークのクラブで演奏できなくなり、主な収入源を失うことになります。チャーリー・パーカーやセロニアス・モンクも絶頂期にキャバレー・カードを失いました。下は、チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイのキャバレー・カードです。

チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイのキャバレー・カード(上記JAZZ NIGHT IN AMERICAより)
チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイのキャバレー・カード(上記JAZZ NIGHT IN AMERICAより)

■アンスリンガーの薬物戦争

 南部の州に急激にマリファナが広がったのは、1910年のメキシコ革命の後です。メキシコから大量の移民労働者が流れてきました。彼らにマリファナを吸う習慣があったため、マリファナも一緒に流れてきたのです。「白人から仕事を奪う」メキシコ移民労働者が白人労働者たちから恨みを受け、さらに1929年からの大恐慌でこれが決定的になり、彼らの習慣であったマリファナがヘイトのシンボルになりました。

 これに決定的に火をつけたのが、1930年に創設された連邦麻薬局(FBN)の長官であったハリー・アンスリンガーです。

 彼は、全米で反マリファナ・キャンペーンを展開し、マリファナが人びとの脳を破壊し、堕落させ、凶悪犯罪に向かわせると主張しました。そして、「薬物を広めるジャズ」という音楽そのものを憎みました。

 当時、マリファナの隠語に「spinach」(ほうれん草)というものがありましたが、アンスリンガーはほうれん草を食べて力を出すポパイ(人気アニメのキャラクター)も憎んだという話があります。

Julia Leeの「The Spinach Song」(「Reefer」とはマリファナの隠語)

 彼はとくに全国的なニュースになるように、大物ミュージシャンを狙いました。ビリー・ホリデイはもちろんですが、他に、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ライオネル・ハンプトン、ディジー・ガレスピー、カウント・ベイシー、セロニアス・モンクなどの名前が彼のノートに書かれ、多くのミュージシャンが秘密裏に監視されていました。

■薬物戦争の終焉

 そもそも「薬物戦争」(War on Drugs)という言葉を使ったのは、リチャード・ニクソン大統領でした(1971年)。彼は、麻薬こそが「アメリカ社会最大の敵」だとし、数十年間、膨大な予算をつぎ込み、多くの依存患者(多くは黒人)を刑務所に収監してきましたが、ドラッグ問題は解決しませんでした。

 そして、2009年には、バラク・オバマ大統領が、「(戦争は)逆効果だ」として「薬物戦争」という言葉を使用するのを止めました。2011年6月には、薬物政策国際委員会は、「世界規模の薬物との戦争は、世界中の人々と社会に対して悲惨な結果をもたらし失敗に終わった。」との報告書を出しています(ただし、この報告書は薬物合法化に反対する団体により批判されています)。(了)

【参考】(文献などは下記を参照してください)

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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