親殺しの系譜

(ペイレスイメージズ/アフロ)

1.かつて刑法典に存在していた尊属殺人の重罰規定は、平成7年になってようやく削除され、一般の殺人罪が適用されていますが、警察庁による平成25年の調査では、殺人の年間認知件数807件のうちで実父母の被害者は134名であり、傷害致死でのそれは99件のうち23名であったということです。実の子によって生命が奪われる事案は、実際には決して少なくないのです。

2.親殺しは、周知のように、古代からもっとも重い犯罪の一つであり、古今東西、どこの国でもこれを徹底的に処罰してきました。身分関係がとくに厳しかった江戸時代、「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)」では、通常の殺人は〈下手人(げしゅにん・げしにん)〉(=斬首)、私欲が加わった殺人は加重されて〈死罪〉(=斬首および死体の試し斬り、情状によっては引廻し)とされていましたが、親殺しは、これよりさらに一等加重されて〈獄門(ごくもん)〉(=斬首および晒し首、情状によっては引廻し)となっていました。

 獄門は、梟首(きょうしゅ)とも呼ばれ、斬首刑に処せられた者の頭部を公然と晒すとくに重い刑罰です。処刑された新選組組長の近藤勇、佐賀の乱の江藤新平が、この刑罰の処せられました。

 これは、食肉鳥である梟(ふくろう)が老いて弱った親鳥を突き殺して食ってしまうところから、世に親殺しほど不孝なものはないとして、正月に家々の門口に梟の首を斬って晒し、孝道の重きを天下に知らしめたという古代中国の故事に由来しています。人の集団を構成する原理として〈忠と孝〉を政治の根底に据える、現代とはまったく異なった法思想のもとでのことでした。

3.明治になって急きょ制定された刑法典である、仮刑律(かりけいりつ)(明治元年)や新律綱領(しんりつこうりょう)(明治3年)は、尊属殺人を普通殺人に比べて特別に重く処罰していました。仮刑律や新律綱領は、いずれもわが国古来の律、それに徳川幕府の御定書を参考にしたものです。律とは、8世紀の律令(りつりょう)制度(大宝・養老律令)のもとでの刑法であり(令は行政法、律は刑法)、王政復古の大号令で始まった明治維新は、千年以上も前の律令制度の復活を革命の理念としていたのでした。

 しかし、その後、脱亜入欧の国是から西洋法継受の流れが強くなり、フランス刑法の影響を受けた改定律例(かいていりつれい)が明治6年に編纂されますが、内容的には依然として律の影響は強く、尊属殺人の重罰化についても大きな変化はありませんでした。

 これは、明治13年公布の旧刑法典でも同じです。尊属殺人は、死刑以外に法定刑のない重罪(旧刑法362条)でしたし、かりに父母の方から先に殺害行為がなされても、子には正当防衛は許されませんでした(旧刑法365条)。

4.旧刑法を受け継いだ、明治40年の現行刑法典も基本的に同じ発想でした。尊属殺人罪(刑法200条)のほかに尊属傷害致死罪(刑法第205条2項)・尊属遺棄罪(刑法第218条2項)・尊属逮捕監禁罪(刑法第220条2項)といった特別の条文を置いて、親以外の一般人に対するそれぞれの犯罪よりも重く処罰していました。

 このような尊属加重規定が初めて最高裁で問題にされたのが、昭和48年4月4日の尊属殺法定刑違憲事件でした。この事件では、実の父親から長年にわたって性的虐待を受けていた被告人が、ついに堪えかねて父親を殺害したというものでしたが、被告人に対して酌むべき事情がありながら、法定刑が死刑と無期懲役しかなく、どんなに減刑しても実刑を回避することができませんでした。最高裁はこの点において法定刑が一般の殺人罪に比べて重すぎて、法の下の平等に反し、違憲であるとの判断を下したのでした(ただし、6名の少数意見では、尊属の加重じたいが違憲とされました)。

 →*「父殺しの女性」を救った日本初の法令違憲判決

5.その後、憲法違反だと判断されたにもかかわらず、刑法200条は削除されることもなく、形式的に刑法典に残っていましたが、平成7年に、それまでの文語体の条文から口語体に変更される際に、尊属殺人罪だけではなく、他の尊属加重規定もすべて削除されたのでした。(了)

【追記】

本稿は、「臨床精神病理」第38巻第1号(2017年)3頁以下に執筆した「孫四郎の犯罪」の一部を元に加筆したものです。