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「限定的な想像力」に包まれる日本社会──元少年A『絶歌』が刺激した日本の“空気”【上】

松谷創一郎ジャーナリスト
AIを使って筆者作成。

 動機が見えにくい凶悪事件──それが相対的に浮上してきたのは90年代以降のことだったろうか。犯人の背景には「貧病争」が見えないものの、突然生じてしまう事件だ。その代表的なものが1997年の少年Aによる「酒鬼薔薇事件」かもしれない。そして現在も類似する事件が目立っている。

 2015年、少年Aは手記『絶歌』を発表して大きな論争に発展した。その際にかの本を取り巻く日本社会の状況を描いた記事を再掲する。

初出:『論座』(朝日新聞社)2015年6月24日/一部加筆・修正

「被害者遺族の心情を配慮」

 1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件。その犯人である元少年Aの手記『絶歌』が出版されて、2週間ほどが経過した。この一件は、いまだにさまざまな反響を呼んでいる。

 たとえば、啓文堂は38店舗全店で販売を見合わせている。その一方で売れ行きはとても良く、版元の太田出版は5万部の増刷を決めた。累計発行部数は15万部となった。啓文堂が販売を見合わせる理由として挙げるのが「被害者遺族の心情を配慮」であるように、この一件のもっとも大きな問題は、ふたりの被害者遺族への許諾なき出版にある。つまり、本の内容よりも出版にいたるまでの手続きの問題にある。

 今年3月、遺族のひとりである山下京子さんは、名古屋大生の事件を受けて「彼の生の言葉が社会に伝われば、そういった犯罪の抑止力になれるのでは」と述べていた。それはAから送られてくる手紙の内容に変化を感じ取っていたからでもあった。

 しかし、この無断の出版は構築されつつあった遺族たちとAとの関係を決定的に壊してしまった。

 もうひとりの被害者の遺族である土師守さんも、重大な二次被害とこの出版を非難している。そして両者ともに、『絶歌』を読むことはないと表明している。世論も概ね「被害者遺族の心情」に同調し、『絶歌』を糾弾する向きにある。

 たとえば『週刊新潮』は、「気を付けろ、元『少年A』が歩いている!」という3ページの記事を組み、日本のどこにAが滞在していたかを匂わせている。この記事の表題は、1981年にフランスで起きた女性殺人事件の「気を付けろ、サガワ君が歩いている!」を受けてのものだ。

 そしてなにより思い出さなければならないのは、1997年当時、少年Aの実名と顔写真を掲載したのは新潮社の『FOCUS』だったことだ。その情報は、現在でもインターネット上に漂っている。

限定的な想像力

 筆者が『Yahoo!ニュース個人』に「『酒鬼薔薇聖斗』の“人間宣言”――元少年A『絶歌』が出版される意義」(2015年6月13日)と題した記事を発表した後、同記事のコメント欄やTwitter、そしてEメールで寄せられた意見は、賛同が4割、反論が6割といった印象である。

 実はここまでの賛同の多さは、少々意外なものであった。筆者自身も、発表するときにそれなりに勇気がいる記事だったからだ。

 一方、反論のほとんどは被害者遺族の心情に寄り添ったものだった。当該記事には、被害者遺族に無断で出版した問題についても触れているが、ほとんどはそれに言及することなく、ある種の典型を持つ反論を寄せてきた。それは「あなたは自分の子供が殺されても、そんな記事が書けるのか?」というものである。

 これを正義の濫用や単なるうっぷん晴らしとして受け止めることはたやすい。実際、そうしたなかにネット上でヘイトスピーチを連発するレイシストも散見された。

 しかし、その多くはいわゆる普通のひとびとなのである。小学生の子を持つサラリーマン、すでに孫のいる初老の女性、生まれたばかりの子を持つ父親や母親等――つまり、善良そうな市民なのである。そうしたひとびとが、怖ろしいまでに感情を露わにし、Aを非難する。まるで当事者であるかのように。

 そうしたひとびとの共感能力はとても高いのだろう。ただ、その適用範囲は極めて限定的でもある。

 彼らの想像力は、自分の子供が殺される可能性にのみ向けられている。そこでまったくもって欠けているのは、自分の子供が少年Aになることへの想像力だ。つまり、自分の子供が殺人者となり、その後の責任を自らが引き受けていかなければならないことへの想像力は決定的に欠落している

 社会的包括よりも社会的排除が優先されるのが、現在の日本の態度である。もちろん、そうした態度は極めて感情的なものである。言い換えれば、感情的だからこそ共感され、その一方で熟考されることはない。そして日本独特のあの“空気”が生まれる。

 筆者が、「『酒鬼薔薇聖斗』の“人間宣言”」の最後でこう書いたのは、こうした状況を想定していたからだ。そして、やはり現状の「世間」の「空気」は、残念なことにそうした方向に傾いている。

高山文彦のメッセージ

 『絶歌』の出版をめぐる騒動において、当初から筆者がもっとも気になっていたのは、ノンフィクション作家の高山文彦の反応である。高山は、1998年にこの事件を入念に追った『「少年A」14歳の肖像』を上梓した。おそらくAもこの本には目を通しているだろう。

 そんな高山は、『週刊文春』6月25日号の特集において、かなり厳しくAと出版社とを批判している。

 『絶歌』では、バモイドオキ神、エグリちゃん、ガルボス等、Aが事件時に抱いていた空想上の存在にはいっさい触れられていない。高山はそうした姿勢を踏まえて「かなり勘違いな、レベルの低い“私小説”」だと糾弾する。そして、A自身が出版社に回収を求めよと通告する。

 しかし、それは必ずしもAの表現を閉ざすことを意味しない。最後に高山はこう述べる。

「新たに三年をかけて稿を改めよ。険しい道を選べ」

 それは作家である高山が、表現の自由を否定しないことを意味しているのと同時に、プロフェッショナルな作家としての矜恃を見せた瞬間でもある。見方を変えれば、Aに対しての先輩からのエールだとも言えるだろう。表現者としての覚悟を持て――ということである。

 さらにこの高山の一言には、あるメタメッセージも含まれているようにも読める。

 それは、「生きろ」というメッセージではないか。強い切迫感が充満する『絶歌』の後半は、まるで遺書のように感じられなくもない。「絶歌」という表題も、これが「最期の表現」だという意味にも取れる。それに対し、「これで終わりにするなよ」という高山のメッセージが込められているようにも思える。

 日本の“空気”に散見されるのは、Aの自死を望むひとが少なくないことだ。ネットでは「本当の裁きがあなたにくだされることを願って止みません」という感情を表出するひともいるほどである。

 こうした世間の“空気”(感情)と高山のこの意見(理性)は、明確なコントラストを成している。

 繰り返しとなるが、現在の日本社会に必要なのは感情ではない。あくまでも、未来にとってなにが有益なのか理性的な判断をしていくことである。『絶歌』がわれわれに投げ出した課題は、そのリトマス試験紙のようでもある。

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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