佐村河内守と奥田民生:広島出身文化人の明暗

2歳違いの佐村河内守と奥田民生

佐村河内守と奥田民生は、ともに広島出身。そして2歳違いである。

佐村河内守は1963年、広島市に隣接する五日市町に生まれた。1985年に広島市に編入されるまで、五日市は日本でいちばん人口の多い町だった。広島駅からも15分ほど。古い商店街などもある郊外のベッドタウンだ。

奥田民生は1965年、広島市東区尾長生まれ。尾長は広島駅北口から約1キロほど。広島駅には近いが、繁華街はさほどないベッドタウンである。そもそも広島駅周辺は、広島の中心街ではない。

佐村河内守は、私立崇徳高校卒。この学校は特進クラスはあるものの、進学校のなかではほどほどの学校だ。

奥田民生は、広島県立広島皆実高校卒。当時、公立進学校のなかでは名門とされていた市内六校(入試は合同)のうちのひとつである。この市内六校のすべり止めが崇徳高校だった。

佐村河内守は、卒業後の82年に上京。アルバイトをしながら88年にソロのロック歌手としてデビューしたとされるが(これが定かかどうかはわからない)、鳴かず飛ばず。96年、映画『秋桜 コスモス』の音楽を手がけ、99年にゲーム『鬼武者』の仕事で脚光を浴びる。

奥田民生は、84年に高校卒業。広島の専門学校に進学。その後オーディションに受かり、87年に上京。ユニコーンでメジャーデビュー。いきなり大ヒットし、以降順風満帆。93年にユニコーンは解散し、96年にはPUFFYをプロデュースし、これまた大ヒット。

佐村河内守は、2008年にG8議長サミットで『交響曲 HIROSHIMA』を発表。聴覚障害者、被爆二世の肩書で秋葉市長に取り入り、ヒロシマ利権に見事に食い込む。

奥田民生は、2004年に広島市民球場でカープのユニフォームを着てソロライブ。その模様は木村カエラ主演の劇映画『カスタムメイド 10.30』にもまとめられている。2009年にはユニコーンの活動も再開。2011年に広島厳島神社でソロライブもした。

“ヒロシマ文化人”として生きること

“ヒロシマ”の「平和」や「原爆」は、広島出身の文化人が半ば特権的に利用できる。広島の文化も、結局はそこに回収されがちである。逆に言えば、それさえやっていれば、能力は問われずに注目される(ただし広島だけで)。

虚飾にまみれた佐村河内守が最終的にそこに行き着いたのは、ある意味必然である。才能ない広島出身者の最後の砦が「平和」や「原爆」だからだ。それさえやっていれば、広島のひとたちは優しく受け止めてくれる。

地位も名声もある奥田民生には、「平和」や「原爆」は必要ない。好きなカープを応援し、ユニフォームを着て広島市民球場でライブをし、実家が近所の『めざましテレビ』の三宅正治キャスターと広島風お好み焼きを食べる。

広島にとって、原爆が過去の象徴だとすれば、カープは未来の象徴。このどちらに賭すかで、広島出身者のパーソナリティも見えてくる。

もちろん、「平和」や「原爆」を蔑ろにしろ、とは決して言わない。『はだしのゲン』の故・中沢啓治や『夕凪の街 桜の国』のこうの史代のように、“ヒロシマ”ではなく広島を真摯に見つめる文化人もいる。ただ、佐村河内守のような存在を作ってしまったことを、広島市や広島の人間は被害者ぶることなく肝に銘じたほうがいい。