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中谷正義氏から学んだこと

林壮一ノンフィクションライター
撮影:筆者

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 元OPBF東洋太平洋/WBOインターコンチネンタル・ライト級チャンピオンの中谷正義氏の携帯電話を鳴らしたのは、11月12日の21時21分だった。

 私はこの日、とんでもない過ちを犯していた。彼が勝利した試合について、逆の結果を記してしまったのだ。慌てて訂正したが、中谷氏に不愉快極まりない思いをさせてしまった。文字通り、命を懸けて戦ってきたボクサーの顔に泥を塗ったのだ。許されることではなかった。

撮影:山口裕朗
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 私からの電話を受けた彼の第一声は、「全然、問題無いですよ」だった。自らの非礼と未熟さを詫びながら、暫し会話を続けた。およそ1年前の吉野修一郎戦を最後にリングを降り、次の道を歩み始めた中谷氏。そんな彼を、今度こそ間違わずに書こうと思った。厚かましいと思われても、断られてもいい。正直、それしか言葉が出なかった……。

 中谷氏は私の申し出に「YES」と答えてくれた。本来なら、電話を叩き切られても当然という相手にである。

 胸が熱くなった。

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 大阪府出身の中谷氏がボクシングを始めたのは、中学3年の時。

 「最初はアポロジムに入りました。中学の部活では水泳部に入っていたんですが、遊びみたいな部だったので、並行してジムに通い始めたんです。水泳は長くやっていましたし、ボクシングも初めての格闘技ではなくて、小学校高学年から空手をやっていて、色んなスポーツを経験する中で、最終的にボクシングに辿り着いた感じですね」

 強豪の興國高校に進学したのは、まずは高校日本一を目指したからですか? と訊ねると、彼は落ち着いた口調で否定した。

 「いえ。そこしか入るところがなかったからです」

 そして、付け加えた。

 「そんなに真剣じゃなかったです。ほぼほぼ遊びみたいな調子で、軽くやっていました」

――あんなに名のある高校でですか? と質すと、あっけらかんと言った。

 「そうなんですよ」

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 卒業後は関西の名門、近畿大学に進学するが他の部員が不祥事を起こし、廃部となってしまう。ボクシングに前向きになったのはいつですか? と問うと、

 「プロに入った時ですね。ただただ就職活動をしたくなくて、大した志も無く」なる答えが返ってきた。

 しかし、プロボクサーになった瞬間、スイッチが入る。

 「プロになったからには、勝たなければ。やるからには一番になる、と考えていました。ひとつひとつ自分のやるべき仕事を重ねた結果、成長していった感じですね」

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 デビューから2年7カ月後の2014年1月11日、OPBF東洋太平洋ライト級タイトルを獲得。その後、足掛け4年にわたってベルトを守り続ける。防衛回数は11。

 自身の19戦目で、後にWBA/IBF/WBO統一ライト級王者となるテオフィモ・ロペスとIBF同級王座挑戦者決定戦で対峙し、初黒星を喫する。その後、帝拳ジムに移籍。2020年12月にWBOインターコンチネンタル王座決定戦で、フェリックス・ベルデホと拳を交えた。

 初回に右ストレートでダウンを奪われ、3回にも左フック、右ストレートを喰らう。4回にも接近戦でのカウンターの右を浴びてダウン。

 当初ペースを握られた中谷氏だったが、第9ラウンドに左ショート、右をぶち込み2度ベルデホをキャンバスに這わせ、本場で存在感を示した。

 「元々、後半に勝負をかける作戦だったんです。前半は思いのほか相手のレベルが高くて、想定外のことが起きた感じでした。ベルデホの踏み込みが、予想以上に鋭かったですね。パンチに反応出来なかった部分があります。

 初黒星後、練習を休んでいて、体の状態が戻っていないこともありました……だんだん慣れてきて、徐々に自分のボクシングができるようになって、9回のKOシーンに結び付きました」

 そして2021年6月26日に迎えたのが、前WBA/WBC/WBO王者のワシル・ロマチェンコだった。

 「強さを感じるというよりも、上手過ぎましたね。ボクシング技術に大きな差がありました。殴り合いじゃなく、単に殴られ続けました。自分が戦ったなかで、最強はやはりロマチェンコです」

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 その差を埋めること、そしてもう一度世界ライト級のベルトを目指して、中谷氏は再起する。フィリピン人選手を初回で沈め、昨年11月1日にWBOアジアパシフィックタイトルを持つ吉野修一郎に挑戦。まさしく61.2kgの日本人頂上決戦であり、生き残った方が世界戦に近付くサバイバルマッチだった。

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 中谷氏はファーストラウンドから自分の距離を保ち、ジャブ、左フック、ボディブローをヒットして先手を取る。が、吉野も巧者だった。長いリーチから繰り出される中谷氏のストレートを搔い潜り、接近戦に持ち込む。そして、5回、6回とダウンを奪って試合を決めた。

 5ラウンド終盤にキャンバスに膝を付いた中谷氏は、翌6回、捨て身で前に出た。歴戦の雄らしい闘志だった。

 「今振り返ると、最後の試合に相応しかったなと思います。自分のベストを尽くし、出し切り、思い残すこと無く終われました。あの試合があったから、スッとボクシングをやめられたというか……。ああいう試合が出来ていなかったら、今でもやめられていなかったと思います」

撮影:山口裕朗
撮影:山口裕朗

 キャリアを振り返って、中谷氏はこんな言葉を口にした。

 「僕はボクシングを通じて、やっと自分が求めているもの、欲しいものに気が付きました。世の中って色んな物で溢れ返っていますよね。自分が未熟だった頃は、物や、欲求に掻き立てられていたように思うんです。ボクサーとして成長し、勝ち続けることで、大抵の物を手に入れられるようになった。そしてその時、本当に必要なものが見えたんですよ。

 人生の明確なゴールが出来て、余計なものを排除しようという気持ちになった。人生の安心というか、安らぎとというか……。世の中の仕組みとして、人の欲に対してマーケティングしているだけなんだ。実際に必要なものは僅かしかないんだと、理解したのです」

 現在、中谷氏はフィットネス スタジオ ボクセオ、UpStartボクシングジムの2カ所で後進を指導している。

 「経験しないと気付けない事ってありますよね。ですから、次世代と接しながら伝えていけたらと考えています。ボクシングだけじゃなくて、人生について本当に必要なものが何かを。ボクシングを教える日々を送りながら、いずれはジムを経営してみたいかな…と、ちょっと思ったりもしますね」

 中谷氏の言葉は誰の心にも響くであろう。インタビュー終了後、改めて己を恥じた。反省しながらも、彼と話せて良かったと思った。

※11月12日の本コーナーで私は過ちを犯しました。中谷正義氏、ボクシング関係者各位、ファンの皆様、そして私の原稿を読んで下さった方々に、心よりお詫び申し上げます

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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