カリフォルニア州サンディエゴ。南の方角に目をやると、メキシコが見える。夜になると、無数の明かりが灯り、メキシコ人たちの暮らしぶりが何となく伝わってるような気持ちになる。

 メキシコとの国境沿いに位置する地ではスペイン語が飛び交い、同国にルーツを持つ人々が多数住んでいる。サンディエゴのみならず、アリゾナ州でもニューメキシコ州でもテキサス州でもそうだ。

 第45代アメリカ合衆国大統領、ドナルド・トランプは不法移民を厳しく取り締まり、メキシコとの国境に高い壁を築いた。

 だが、国境沿いの街に身を置いてみると「人生を変えたい」と、危険を承知でアメリカ合衆国に入る人々の気持ちが良く解る。

 スペイン語しか話せなくても仕事は見付かるし、子供がアメリカで出生すれば、その子はアメリカ人となる。そして、アメリカ国籍の子供が21歳になれば、移民も「アメリカンを育てた親」としてグリーンカードを得られるのだ。

 国境の向こうを見詰めながら、14年前にインタビューした元WBCライト級チャンピオンを思い出した。

撮影:著者 国境
撮影:著者 国境

 1945年12月16日にメキシコ、グアタラハラで生まれたロドルフォ・ゴンザレスは、18歳の時、車のトランクに身を潜めてアメリカに入国した。人生のチャンスを掴むためだった。

撮影:著者 景色の行き止まりはティファナ
撮影:著者 景色の行き止まりはティファナ

 私が彼をインタビューした際、元チャンピオンは話した。

 「幼い頃に父が他界し、母が、建設労働やコック、ハウスキーピング、ベビーシッティングなどをして、私たち8人のきょうだいを養ってくれました。母には感謝の気持ちしかありませんが、食べ物にも事欠く日々でした。

 とにかく貧しかった。母を助けたかった私は、物心ついた頃から、兄と共に新聞配達や靴磨き、車の洗車などをして収入を得ました。食費の足しにはなったんですよ。毎日忙しく働いたので、小学校にすら通っていません」

撮影:著者
撮影:著者

 「そんな暮らしぶりでしたから、私は18歳まで読み書きが全くできなかったんです。毎晩、母が語り聞かせてくれたので、聖書の内容だけは理解していましたがね……。18歳でアメリカに移住してきて、初めて文字を習いました」

 世界バンタム級チャンピオンだった、ジョー・ベセラがゴンザレスの親戚にあたり、ボクシングを教えてくれた。ジムに通い出して1カ月後、13歳にしてプロデビューする。しかも6回戦でのスタートだった。

 「たった1カ月で、本当に試合が組まれたんですよ。プロ第1戦は、確か2ラウンドKO勝ちでした。デビューから33戦はすべてノックアウト勝ちでしたね。多くが、ベセラから習ったボディーブローでした。彼は教え方も一流でした。連勝し、私も世界チャンピオンになれるのでは、と感じたんです」

 しかし、連勝してもそれほど多くの金は稼げず、貧しいままだった。

 「デビュー戦の報酬は10ペソ。米ドルに換算したら当時の金額で65セントです。とてもではないけれど、生活していくのは不可能でした」

 ゴンザレスは自転車工場で働きながらリングに上がり続ける。

 「メキシコで暮らしていてもチャンスは無い。アメリカに渡ってビックプロモーターと契約すれば、世界タイトルに挑めるだろうと考え、国境を渡ったんです」

撮影:著者
撮影:著者

 「すぐに世界ランキング1位になったのですが、今振り返れば、満足できる契約じゃなかった。毎月800ドルの生活費を受け取ってはいましたが、それがどんな意味を持つのか分からなかった…。文字が読めないから、理解できない訳ですよ。世界1位でありながら、たった27ドルしか受け取れなかった試合もありました」

 不遇な時期を過ごしながらも1972年11月10日、チャンゴ・カルモナの持つWBCライト級タイトルに挑む。場所はロスアンジェルスに建っていた「スポーツ・アリーナ」。1万2018人のファンが見守るなか、ゴンザレスは2カ月前に同タイトルを奪取し、正規なルートで祖国・メキシコからアメリカに入国したサウスポー王者を完膚なきまでに叩きのめす。

 12回終了TKOで下してWBCライト級王座を獲得。このファイトでは、チャンピオンのカルモナに3万ドル、挑戦者ゴンザレスに1万ドルが保証された。

 「どうにかして人生を拓きたかった。ボクシングによって、それが叶いました。私はボクシングのほかに何も知らない人間です。私とボクシングを繋げて下さった神に感謝しています」

写真:ロイター/アフロ

 3度目の防衛戦でゴンザレスは日本を訪れる。挑戦者はガッツ石松。石松が所属していたヨネクラジムの米倉健司会長は、ジョー・ベセラの持つ世界バンタム級タイトルに挑み、敗れていた。

 「弟子同士の戦いでした。運命の糸のようなものがあったんじゃないかな……。ただ、イシマツと戦った時、私はもうピークを過ぎていました。10日間で25パウンドの減量を強いられてね。体重を落とすだけでフラフラだったんです。イシマツとの第1戦は1974年4月に行われましたが、当初は1月の予定でした。私が右膝にウィルスをもらってしまって、延期したんです。やっぱり完璧なコンディションじゃなかったですね」

 8回KO負けで王座を失う。

写真:アフロ

 「イシマツはとても強く、頭の良い選手でした。苦労してやっと手にしたタイトルを奪われたわけですから、どうしても取り返したかった。ですが、もう私が衰えていました。7カ月後のリターンマッチの前に大阪の街をロードワークしていて、60代半ばくらいの女性に追い抜かれたんです。それで、最後にすることを決めました。16年もプロをやってましたし、潮時だろうと。イシマツとの第2戦に勝ったとしても引退するつもりでした。

 もう少し早く世界王座に挑めていたら、長くチャンピオンでいられたかもしれません。2回じゃなくて7回くらいは防衛できたかな。とはいえ、チャンピオンになって稼いだ金で、母親に家をプレゼントすることができたので満足しています」

写真:ロイター/アフロ

 先頃、麻薬運搬に活用されていたメキシコとアメリカを結ぶ地下道が話題となった。法の網を潜り、両国を行き来する人々は今後も消えはしないだろう。

 が、ゴンザレスが新天地で幸福を手にした事実は、胸を熱くさせる。