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世界最強だった男 マイク・タイソンを葬った男 #11 最終戦に向けて

林壮一ノンフィクションライター
ポテンシャルだけなら、アリを超えていたかもしれないルイス(写真:ロイター/アフロ)

 タイソンとの試合が具体化するとレノックス・ルイスは、“最終戦”に向けての自信を覗かせた。

「ここ数年間、オレはトップヘビーたちと世界タイトルマッチを闘って来た。タイソンはどうだ? 名も無い選手との試合をこなして来ただけじゃないか」

 ルイスは様々なメディアで、そう語った。

 ホリフィールドの耳を噛み契って一年半の謹慎生活を送ったタイソンは、復帰してから6戦し、4つのK0勝ちと、2つのノーコンテストという戦績であった。4つの白星のなかにはルイスが下した世界ランカーとの対戦も含まれていたが、統一王者の言葉通り、トップ選手とは言い難かった。

 無効となったファイトは、ラウンド終了のゴング後にパンチを振るって相手をノックアウトしてしまったものと、ルイスに破壊されたあのゴロタとの試合である。1ラウンド終盤に右ストレートを浴びてダウンを喫したゴロタは、3ラウンド開始前に自ら試合を放棄する。その結果,タイソンのTKO勝ちが告げられたが、後日、タイソンのマリファナ使用が判明した。

 タイソンは統一王者時代の彼を10とするなら 1も無いような状態に過ぎなかった。それでもトップコンテンダーとしてタイトル戦を闘うことができるのは、ヘビー級には粋のいい若手の台頭が見られず、深刻な高齡化が進んでいたからだ。

 この一戦は、1980年代からヘビー級をリードして来た、ルイス、タイソン、ホリフィールド、ボウのジェネレーションによるラストマッチでもあった。最年少者であるボウは既にリングを去ったが、39歳のホリフィールド、36歳のルイス、35歳のタイソンと、彼らは10年以上も同じ顔ぶれでボクシング界の中心にいた。彼らの世代による闘いが終わる時、ヘビー級は冬の時代を迎えることになる。

 順当にいけばルイスは防衛を果たすだろう。しかし、タイソンと向かい合った時、少しでも恐怖を覚えてしまったら、あるいはラクマン戦のように心の隙を見せてしまったら、彼が王座を奪われる可能性も大いに有り得た。

 ペンシルバニア州ポコノ。リゾートとして名高い当地の最高級ホテル、シーザース・ブルックディールの一角に設けられた特別ジムが、ルイスのキャンプ場であった。私がポコノに足を運んだのは、タイソン戦から3週間前のことだ。

 床には、春の温かな日差しが反射していた。16時を回っているというのに、陽はまだ高い。窓からは緑に囲まれた池が見え、ポツポツと二人乗りのボートが浮かんでいた。決戦の日を控えた世界王者が汗を流す空間とは対照的に、5月の休日を楽しむ人々の笑い声が漏れてくるかのようだ。

 このホテルには、コテージ型をした287の部屋があったが、どこかで、タイソン戦を控えた世界ヘビー級チャンピオンが練習していることを聞きつけたのだろう。トレーニング前に数回、ジムのドアを開いて中を覗こうとするファンがあった。その度にチームルイスのスタッフが「部外者の入室はお断りだ」と、侵入者を追い払った。この5年の間に、ルイスの身の回りの世話をする人間は、3名から9名に増えていた。

 スタッフはルイスの荷物を運び、トレーニング前にジムを掃除し、ストレッチを手伝った。さらには、練習の前後にチャンピオンのリングシューズを履かせては脱がせた。彼らの働きぶりは、使い走り以外の何ものでもなかった。それは、世界ヘビー級王者だけに許される贅沢さに映った。

 

 スチュワードにバンテージを巻いてもらうと、ウォーミングアップ無しでのスパーリングが始まった。

 背が低く、フックを得意とする2人のファイターを相手に、ルイスは正確なジャブを打ち続けた。左フットワークも軽快で、左一本でリングを支配する。コーナーからは、何度も「ナイスジャ

プ」「ビューティフル」と感嘆の声が上がった。

 その動きは、ゴロタ戦以上に見えた。ルイスに視線を送りながら、「やればできるんだ…」と独り言が漏れた。チャンピオンが身に付けた、赤にブルーの縦ラインと黄色い横ラインが入った派手なスパッツからは、1月22日の記者会見でタイソンに噛みつかれた左太腿の傷が見え隠れした。

「いいよ。その調子で、左を出し続けて」

 このキャンプでのスチュワードは、同じアドバイスを短く送るだけでよかった。タイソン戦の鍵となるのは、間違いなく左ジャブだ。15センチの身長差と33センチのリーチ差を活かすには、当然の闘い方である。ジャブを多用しながら常にルイスの距離を保ち、決してタイソンを懐に入らせない。それさえできれば、ルイスがタイソンのパンチを喰らう筈はなかった。

 全盛期のタイソンと対戦したファイターたちとて、そんな理屈は百も承知だった。が、想像を絶する速度のヘッドスリップでジャブを躱され、気が付いた時には鋭いステップインで至近距離に詰められていた。そして、米国のボクシングメディアにマグネシウムと称された強打を浴びて、キャンバスに横たわるしかなかった

 ルイスはジャブでリズムを掴んで得意の右ストレートを叩き込むことに加え、タイソンが身体を寄せて来たところに、顎へのアッパーカットを見舞う作を立てていた。スパーリングはあくまでも左ジャブがテーマであったが、時折、やや力を抜いた右のアッパーで、パートナーをグラつかせた。

 9ラウンド目の中盤、フッと一瞬気を抜いたところにパートナーのジャブが当たり、ルイスの表情が変わった。左を打つと見せかけ、右ストレートをテンプルにヒットする。堪らず、パートナーは腰を落とした。その後はボディに的を絞りなおし、右を使わずに合計10ラウンドのスパーリングは終了した。

 グローブとヘッドギアをはずしたルイスは、リング上で真新しいTシャツに着替え、パンチングボールを1ラウンド叩いた。そして、ステップを確認しながら軽くシャドウボクシングをすると、練習を切り上げた。

 練習後、スチュワードの部屋に呼ばれ、紅茶を御馳走になった。

「ルイスの調子は良さそうですね。ジャブがうるさく出ているし、タイソンが相手ということで、モチベーションが違うのかな」

 私がスパーリングの感想を述べると、スチュワードは白い歯を見せた。

「そうだね。キャンプは何の問題もなく、順調に進んでいる。今回のレノックスは、集中力が切れないよ。やはり、タイソンを倒して得るものの大きさを感じているんじゃないかな」

「彼は左がよく出る時は、いい試合をしますよね」

「左もそうだけれど、右ストレートを多用せよ、と指示している。ストレート系で勝負しよう

と。課題としているのはアグレッシブに、という点なんだ。レノックスが攻撃的なスタイルを貫けば自然とタイソンを料理することになるよ」

「トータルで、何ラウンドのスパーリングを予定しているのですか?」

「100前後になると思う。それくらいで充分。レノックスは世界王者として、もう5年も戦っているのだから」

「今のタイソンについては、どう分析していますか?」

「非常にバランスが悪く、動きがぎこちないよね。本人も戸惑いながらファイトしている。なのに陣営には、誰も彼を的確にコーチして修正してやれる人間がいない。その結果、タイソンはさらに戸惑い、どう動いていいのか分からなくなってしまっている。悪循環だな。レノックスにプレッシャーをかけるのは難しいだろう」

 スチュワードは、淡々と言葉を続けた。

「タイソンのスタイルは、瞬発力が無ければ無理だ。つまり、ヤングファイターだけができるものだ。もう、昔の彼ではないからね。その点レノックスは、オフェンス、ディフェンス共に進歩している」

「ズバリ、予想は?」

「4ラウンドか5ラウンドで、レノックスがノックアウト勝ちを収めるだろう。タイソンはそれほど難しいチャレンジャーではない。むしろ簡単な部類に入るよ。何も心配していない」

 スチュワードは勝利を確信していた。その口ぶりには、業界ナンバーワンの地位を守り続けるトレーナーならではの自信を感じさせた。

「この試合後にレノックスは、モハメド・アリに継ぐヘビー級チャンプと認められるだろうね」

 5年前、スチュワードはルイスを「アリ超える逸材」と評した。だが、少なく無い時間を共有した結果、それは叶わないことだと見解を変えたのだった。

 確かにルイスのコンディションは良かったが、スパーリングで目にした、フッと一瞬集中力を欠いたところでパートナーのジャブを貰ったシーンが、私の頭から離れずにいた。このような気の緩みこそが、過去に2度も王座から転落する事態を招いたのではなかったか。

「でも、ハーンズのようなハートは、やはり持てなかったのでは?  ルイスは才能だけでここまで辿り付いたチャンピオンであるようにも感じます」

 訊ねると、スチュワードは少し間を置いて答えた。

「ハートは確実にトミーの方が上。でもレノックスもトミーには無いものを沢山持っている。努力無しで、統一ヘビー級王者にはなれっこないさ。タイソンからの勝利は非常に価値のあるものになるだろう」

(つづく)

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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